・JACK・
鍛冶屋のジャックは酒好きだった。
飲んだくれジャック、千鳥足ジャック、赤ら顔ジャック。
ほろ酔い気分でパブからの帰り、通りを歩くジャックの姿を見るたび人々は口々に罵りあざ笑いそうしてジャックをのけ者にした。
ジャックは本当は心根の優しい色男。正直者で誠実で、ただ少し酒が好きだっただけ。
誰かの心無い言葉。憂さ晴らしの噂話。噂に背びれ胸びれ尾ひれがついた。色を伴い形を成した。ついにはケチで貧乏なジャック。人の顔色を窺っては酒を奢らせることばかり考えている。さてどうやって今日の飲み代を得ようか。頭の中はただそれだけ。来る日も来る日も酒浸り。男も女もとっかえひっかえ、あることないこと嘯きながらの口八丁手八丁。
今日もジャックは人を謀る欺く騙くらかしの目くらまし。ジャックはそうしてジャックに"なった"。
ある年の万聖節の前夜、いつものパブでジャックは悪魔に出会った。正体を隠した悪魔はジャックを魅了した。ジャックは一目で悪魔に心を奪われた。
やがて正体を顕わにした悪魔に魂を奪われそうになったジャックは、悪魔に一つ提案する。
「俺の魂はアンタに喰わせてやるからさ、その前に一杯だけ、そう、一杯だけで良いんだ。今生のお別れにアンタの奢りで酒を飲ませてくれよ、と」
悪魔はそれを了承した。ジャックの飲み代の6ギルに姿を変えた悪魔を、ジャックはすかさず捕えて財布の中へ入れてしまった。財布の口を閉められて体を動かすことすらままならなくなった悪魔。悪魔はジャックに懇願した。お願いだ。頼むからここから出してくれ。出してくれるなら何でもしよう。ジャックは笑いながら言った。
「俺の魂をこの先10年喰わないと約束するなら、お前をここからだしてやるぞ、と」
悪魔は約束を守ると誓った。ジャックに解放された悪魔。悪魔を解放したジャック。二人はそれから10年の後、再び出会う。
「で、どうなるんだ、と。10年たったから悪魔はジャックを喰っても良いんだろ?」
「いや、結局このときも悪魔はジャックの魂をとれない」
「なんでだよ」
掌にすっぽり収まったグラスを両の手で暖めながら味わうのは林檎酒だ。ストレートのアップルジャック。
普段は口にすることのないその甘ったるい酒は、今宵の晩酌のためにレノが持ち込んだものだった。
10月31日の深夜、万聖節の前の夜。カボチャとランタンの灯りで右も左もオレンジ色に染まったミッドガルの夜。
「trick or treat!」「Happy halloween!」
子供の声がどこかで聞こえる。浮き足立ったプレートの上。どいつもこいつも腐ってやがる。腐ったピザの上で踊り明かす仮装の夜。仮想の街に懸想する。
口紅の剥げた唇がささやくように「ねぇ何かお話して、眠れないの」。
レノはその夜ルードに話を強請った。寝物語にはまだ早い。ちびちびと林檎酒を呷りながら二人きり、喧騒の街の隅にひっそりと広がる夜の染みのように静かに語られる物語。
アップルジャックを持ち込んだ赤い髪の「ジャック」への当てつけのつもりなのか。はたまた別の意図があるのか。話をしろと言いだした手前、引っ込みのつかないレノは珍しく我慢して話を聞いてやることにした。つまりはそれだけ上機嫌だった。
勝手知ったるルード宅の冷蔵庫から拝借したチーズを摘みながら、レノがさらに続きをせがむと、ルードは何事か含むように小さく笑ってレノの手の内のチーズを奪って口に入れた。
「あ…っ!てめ…それは俺ンだ」
「元々俺の家にあった物を俺が食べて何が悪い?」
「でも先に食おうとしたのは俺なんだから、アレは俺のモンだったんだぞ、と」
言いながら、もったいぶらずに続きを話せ、と上目遣いで睨むようにして促すと、ルードは再び話し始めた。
10年後再び出会った悪魔とジャック。再び魂を奪われそうになったジャックは言う。
「わかったわかった、魂はやる。その前にどうしても一つだけ、あの木になっている林檎を食わせてくれないか」
悪魔は渋々頷いて、木の上にのぼってやった。ジャックの欲しがる林檎を取るため木にのぼった悪魔。すかさずジャックはその木の幹に布で十字架を作ってしまった。十字架のために木から降りることが出来なくなってしまった悪魔。
弱る悪魔の姿にせせら笑うジャック。ジャックは再び悪魔に約束をさせる。
今後絶対に自分の魂を喰わないならば、アンタを木の上から降ろしてやろう。
そうして悪魔は再びジャックの提案を受け入れた。悪魔はジャックの魂を絶対に取らないことを誓った。
「めでたしめでたし、と」
「いや…この話にはまだ続きがある」
「は?続き?」
「そうだ」
体温で暖められたアップルジャックの芳醇な香りが漂う室内で、ルードはゆっくりと口を開いた。
ジャックが悪魔と約束をかわしたその日から10年が過ぎ、20年がすぎ……もっとずっと、長い長い年月がたった。
悪魔との約束などすっかり忘れてしまった頃、老いたジャックは誰にも看取られることなく一人きりで死んでいった。
死んだ人間はまず天国へ行き着くものである。死後のジャックも皆と同様に天国へ着いた。けれどその行いの悪さから天国への扉を開くことは出来なかった。天国へ入れなかった人間はどうなるか。ジャックは地獄へ送られた。
やがてたどり着いた地獄の入り口でジャックは一匹の悪魔と出会う。そうだ、あの悪魔。遠い昔、ジャックの魂を絶対に取らないと約束したあの悪魔だ。
悪魔は言う、「俺はお前の魂だけは絶対にとらないとあの日約束した。だから今、お前の魂を奪うことは出来ない。魂がとれない以上、地獄へ入れてやるわけにはいかない」
ジャックは仕方なく来た道を再び天国の方へと引き返すことになってしまった。天国への道は闇の中、それは途方も無い長さを行かねばならない道だった。哀れなジャックの身を案じた悪魔は地獄の炎の一塊をジャックへとくれた。ジャックはそれを道の途中で拾ったカボチャへ入れてランタンを作り、その灯りを頼りに再び闇の中を歩きだした。
それ以来、ジャックは生前の悪行の罰として、カボチャのランタンを持ってこの世とあの世を行きつ戻りつ、延々さ迷い続けているそうである。
「それでおしまいですか?と」
「あぁ」
「お話ありがとうございました、と。わたくしもジャックのようにならないように、この命ある限り主の教えに従い、善行を積むことを心がけます、と」
「…何がそんなに気に入らない?」
空になったグラスに並々と林檎酒を注いで一気に呷ったレノが、ほんのり目の端を赤く染めて言った。
「何もかもですよ、と。神様神様、ルードが俺にいじわるします、と」
「何もお前のことを言っているわけじゃない」
「主よ、どうか口の減らないルードの悪行をお許しください、ルードをお見捨てにならないでください。どうかこいつを地獄へ叩き落してやってください、アーメン」
胸の前でぐにゃぐにゃと頼りない十字を切って、レノはグラスの乗ったテーブルを威勢よく蹴り飛ばすと、アップルジャックの酒瓶を抱えたまま座っていたスツールの背後にあるベッドの上へころんと仰向けに寝転んだ。
いつもの癇癪にルードはやれやれと溜息をついて、赤毛のジャックがひっくり返したテーブルを整え、弾き飛ばされた勢いで割れたグラスの破片を拾い上げた。
「ルード」
ベッドの上で舌の回らない酔っ払いが名を呼ぶその声も聞かぬふりして、ルードが手際よく割れたグラスを処分していると、再びベッドの上から酔っ払いのわめき声が聞こえてきた。
「ルー、ド!」
騒音被害でご近所から訴えられかねない真夜中の絶叫に、片づけの中断を余儀なくされたルードがベッドへ向かうと、そこには本日のドルチェ、「レノの林檎酒漬けシーツ包み」が出来上がっていた。
「レノ」
ほとんど中身の入っていない酒瓶をレノの腕の中から奪うと、抱きつくものを無くしたその腕がするりとルードの体の方へと伸びてきた。
「ジャックは悪魔に心配されて、悪い気はしなかったんだぞ、と」
「…悪魔は心配なんかした覚えは無い」
「ならどうして火をくれた?」
衣服を剥ぎ取られた真白い肌の上、ゆらめく赤い髪は地獄の炎の欠片にも似て。
「ジャックの気を引きたかった」
この世で一人きりのジャック。生きている間には誰からも省みられることなく、一人ぼっちでその生を終えたジャック。
「…それでもきっと、悪い気はしなかったんだろ、な」
互いの肌の上を辿る指先、触れた側から熱を帯びる。ジャックは火が欲しかった。生きていたときには誰もくれなかった。けれどジャックは死んでから火を貰えた。悪魔がくれた地獄の炎は昏く深く、芯まで焼き尽くす熱い炎。その身を焦がすほどの熱で、融ける。
「きっと…――」
ジャックが手に入れた炎は、生者も死者も、そのどちらも手に入れることの叶わなかった光。照らし出される悦びに今宵もまた酔いしれる。
その口付けで、その熱で。
融ける。溶かす。アップルジャックの香る夜。
2005/11/01
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