・くしゃみ・

 シャワーを浴びて眠る前、乾かしたばかりのレノの髪に顔をうずめるのが好きだった。
 ふわふわの感触とシャンプーの香り、レノのにおいがするのだ。
 普段整髪料でがちがちに固めてセットされているその髪は、おどろくほどの猫っ毛だった。その事実にルードが気づいたのは、レノと同じベッドの上で夜を明かすようになってからのことだ。
 ルードの家に入り浸るようになってからもなぜかレノは髪に触れられることを頑なに拒み続けていた。
 時折完全に洗い流しきれていないシャンプーを髪につけて風呂から上がってくるほど洗髪が下手なレノに代わって洗ってやろうかと提案したときも、初めのうちはことごとく拒絶されていた。そうでなくともしっかりトリートメントをしていないせいで、その頃すでに長かったレノの髪は艶の欠片も見当たらないほどにすっかり傷んでしまっていたのだ。
 見かねたルードがあるとき強制的にバスルームへレノを押し込めて髪を洗ってやったことがあった。
 初めのうちは狭いそのバスルームの中で髪に泡をたっぷりつけたままじたばた抵抗して暴れまわっていたレノも、ルードの魔法の手によって次第に大人しくなっていった。
「ハゲのくせに、なんでンなに上手いんだよ!」
 わめいた声がバスルームの中で響いた。髪に触れてくるルードの手は、思っていた以上に心地良いものだったのだ。
 それまでレノは他人に髪を触られることがとても苦手だった。ヘアサロンに通うことをやめて髪を自分でカットしたり、セットしたりするようになったのも元はといえばそのせいなのだ。レノがサロン通いをやめたのにはもう一つ理由がある。珍しい赤い髪の色について根掘り葉掘り尋ねられることにいい加減うんざりしていたのだ。赤い髪が染色したものではなく、生まれつきだと知った美容師たちがレノに瞳を輝かせながら尋ねてくるその言葉がいちいち癪に障った。「どちらのお生まれなんですか?」「ご両親もこのお色だったりします?」「燃えるような赤なんて初めて見ましたよ」自身の赤い髪が子どもの頃から禁忌の証であったレノにとって、髪について他人から話題にされることが必然であるサロンは耐え難い場所だったのだ。
 だから初めてルードから髪を話題にされたとき、お前もか、と内心失望したものだった。けれどルードがそうやってレノの髪について話題にしてくる他の人々と違っていたのは、赤い髪それ自体の美しさを褒めることはあっても、レノ自身のことについては全く触れてこなかったことだった。聞かれるであろうとレノが覚悟していたいくつもの事柄について、ルードは一向に触れてこないどころか、赤い髪を洗わせてほしいとさえ言ってくる。
 すっかり拍子抜けしたレノがおかしな願いを聞き入れる羽目になったその日、レノはこれまで経験してきたどこのサロンの美容師たちよりも、ルードが髪を扱うのが上手いことを知った。
 それからいくらもたたぬうちにレノの髪を乾かしてやることがルードの日課になった。艶のあるふわふわの髪の仕上がりに満足するレノとうっとりするルード。あれほど嫌だった他人の手が髪の上をすべる感触が、いつしか心地よい夜のひとときになっていた。
 今夜もまた優しい手つきがレノの髪を掬い取る、ドライヤーで乾かしてくしで梳く。赤い長い髪は昼間の逆立てた状態からは信じられないほど素直にレノの肩の上を滑る。
「なあ、ルードぉ」
「どうした?」
 ベッドサイドに腰掛けて、髪を梳かれながら雑誌に目を落としていたレノが背後のルードに声をかけた。
「よく飽きないのな、お前、と」
 くるりと振り向かれて、ルードはその手を止める。じっと無言で見つめられること数秒後、ルードは何も言わずにレノの肩の上に手を置き、前を向くように促した。
「お前こそ、よく黙って座っている。あれほど嫌がっていたのに」
 再び髪を梳きながらルードがぼそりと呟いたのを、レノは聞き逃さずにけらけらと声を上げて笑った。
「あんたの手、気持ちイーからな、と」
「……そうか」
 ルードが髪を梳く手を止めた。おしまいの合図は初めて髪に触れられたときから毎晩変わらない。そっと頭に手を触れて、ふわふわの髪を撫でながら顔をうずめてキスを一つ。何も言わずにそれをされることが髪を梳き終えたというルードの意思表示だった。
 ところが今夜は一つだけ違っていた。髪に顔をうずめた後、ルードが一つくしゃみをしたのだ。くしゅん、というくしゃみの音は、それがくしゃみだとよく知るものでなければ気づけないだろうというほど、それはそれは小さなものだった。
「悪い」
 顔をわずかに背けたとはいえ、頭のすぐ上でくしゃみをされて良い気分のものはいないだろう。ルードが即座にそう言うと、レノはくすくす笑い出した。
「何がおかしい」
「だって、あんたのくしゃみ、いつものことだけど、ちっせぇなぁ、それ。図体でけーくせにンなとこだけやたらちっせぇんだから、つい、な、と」
 くしゃみを笑われたのだとわかったルードはむっとして、レノについ反論した。
「お前だって、酷いだろう」
「なにが」
「くしゃみだ。初めて聞いたときはオフィスで鼓膜が破れるかと思った」
「傷つくようなこと言うな、と。俺様意外とデリケートなんだぞ、と」
「俺だってデリケートだ」
「へぇ、そっか、そっか、と」
「本気にしていないだろう」
「ばっか、マジ本気だって、おおマジだぞ…っ…・・・と…ぅぶえっくしょい!」
「ほら、見たことか」
 部屋中に響き渡る巨大なくしゃみの音にルードが顔を顰めた。品のかけらもないくしゃみの音は、いくら可愛いレノのすることだからといっても納得がいかないものだとルードは常日頃、それを聞かされる度に思っていた。
「お前のくしゃみ聞いたらうつっちまったぞ、と」
「くしゃみはうつらない。人のせいにするな」
「でもお前のせいだぞ、と」
 すべてルードのせいにして、にかっと笑うレノを思わず可愛いと思ってしまったルードの敗北だった。いつかこのくしゃみさえ可愛いと本気で思える日がやってくるのかと思うとぞっとする。
 それ以来、レノはしばらくの間ルードの前でくしゃみをする度に注意されることになったとか。




2007/4/1