・まよいねこ・



「むかえにこい」


場所も言わず名も名乗らずただ一言のメッセージ。シャワーを浴びている最中にかかってきていたらしいそれ。
着信があったことを知らせるランプが点滅を繰り返す携帯電話の留守録を確認して、ルードはそのメッセージを残した人間へと電話を掛けなおした。
「どこにいる」
かけられてきた番号など見なくとも、ましてや名前なぞ聞かなくともわかる。こんな時間にあんな口の利き方で。一日の終わり、今日もまた激務に耐えた体と心にようやっと訪れた安寧、貴重なプライヴェートタイムをぶち壊しにかかる人間なんてただの一人しかいない。
今度はどこで殴り合いのつかみ合いか、はたまた飲みすぎて動けなくなっただけなのか。トラブルの種を撒き散らしながら夜毎繰り返される酔狂なサーカス。道化の彼は舞台を終えると大抵満身創痍の体でその日最後の客を呼ぶ――むかえにこい。
「……」
返事が無い、屍のようだ。という以前何かのゲームで見たフレーズを思い出した。それも電話先の相手がルードの家にいつだったか最新式のハードごと持ち込んだ挙句、それから二三日の間夜を徹して遊んでいたものだった。
「レノ?」
「………っと…いいから、むかえに、こい、よ、と」
「場所がわからない」
「おれにも、わかんねぇ」
「無理だ」
「無理でもどうにかしろってんだよこのハゲ!」
ぶつっと通話が途切れる。二度、三度、そこから掛けなおしてみたものの今度は着信に応じる気配すらない。
不意に襲われた嫌な感覚に物も言わず、ルードはルームウェアの上に手近にあった上着を羽織っただけの姿で家を飛び出した。
秋の夜、気候の良いこの季節の繁華街は人出も多いが、夜も深まったこの時間帯ともなるとさすがに人影もまばらになる。
ルードは街灯のない小路の闇の中を、先程の通話を思い起こしながら駆けていた。
レノの声以外に聞こえた周囲の音、電波状況、さらにはレノの声の調子。
何かレノの居場所の手がかりとなるような音は聞こえなかったか、レノの様子に普段と異なる点はなかったか。
普段レノが行きそうな場所、レノが好む店の周囲、一つ一つ思い当たる場所を巡りながらも考える。このまま虱潰しに当たっていてもキリがない。
唯一つ、急がなければならないことは確かだった。ルードにはわかってしまった。レノは何かを隠している。ルードには知られたくないという意思を持ちながらもそれでも自分一人ではどうにもならないことを冷静に判断出来るレノ。隠すくらいなら呼ばなければ良い、けれど他に呼べる人間がいない。だから呼ぶ。今来い、すぐ来い、お前が来れないならばそのときは。
そこから先を想像するといつも寒くなる。こうして呼ばれることは有難い。笑えるほど。涙がでるほど。けれどレノは知っている。ルードが見つけられない場合だってあることを。それでもルードをレノは呼ぶ。ルードはレノをそれでも探しに行く。見つかるまで、いつだって。

――通話開始までの短い沈黙。返答までの僅かな時間のずれ。
すぐに電話に出るような気分ではなかった、またはすぐに電話に出られる状態ではなかった。

――場所がわからない。
つい先刻まで前後不覚になるような状態だった。酒か、喧嘩か、クスリか、それとも何かまた別の。

――無理でもどうにかしろ。
突然怒り出す、急変する態度。気だるそうな声。無理でもどうにか…置かれている状況があまり良くは無いということ。


電波状況は悪くはなかった、が、良くもなかった。聞き取れた範囲内では背後に音は無し。野外ではないのかもしれない。屋内、少し音の反響する場所。壁際、小さな建物。話し声もしないということはバーやクラブの類ではない。いや、そう考えるのも早計か。ホテルの一室、同伴する者がいるというなら少々厄介なことになりかねない。
若干くぐもって聞こえた声に覇気はなかった。それもまたよくあることだ。機嫌が悪い、寝不足。けれど今夜仕事上がりに別れたそのときにはそのどちらでもなかった。むしろ彼の機嫌は普段より良かったともいえる。彼が苦手とする報告書や連絡関連のデスクワークも嫌々ながらそれなりの数こなしていたところをみると、昨晩の睡眠もしっかりと取れていたに違いない。
ならば――この、今の状況は初めルードが想像したそれより格段に悪い、ことになる。
彼のいきつけの数軒の店とその周辺をまわり、これで飲み屋の関係には当てがなくなるだろうという、ルードの知る最後の一軒でも求める赤い髪の姿を見出すことが出来なかったルードが、店じまい間際のそこから一歩外に足を踏み出したそのとき、一匹の猫が目の前をふわりと横切った。
オレンジ色のほのかな店の照明に照らし出された、薄汚れて灰色に見える白い猫は店の前の石畳の歩道をぺたぺたと歩く。足跡が点々と歩道に染みを作り出す。赤黒い染み。
はっとして猫の行く先を見つめた。店の裏手の路地、人がぎりぎり一人通れるか否かのスペースしかないそこに、猫はすい、と侵入する。ルードも大きな体を小さく折り畳んで薄汚れた路地を進んだ。ぎりぎりに迫った両の壁に上着が擦れてみるみるうちに黒く煤けていった。あぁあの猫もこうして灰色になったのだと、その後ろ姿を追いながらゴミやガラクタのぶちまけられた路地の奥の分岐点をさらに薄暗く湿った方へ進むと、それまでそこにはなかった人の気配がした。
「レノか?」
夜の闇、暗闇のそのまた奥で真っ黒い塊が小さく蹲って荒い呼吸を繰り返していた。間違いなく今宵探し求めていた相手だった。
「…おそい、ぞ、と」
「無駄口を叩く余裕があるなら自分で歩け」
「そいつは、むり…だ、な」
抱え上げると傷が痛むのか小さく舌打ちをする声が聞こえてきた。こう暗くては傷口もろくに確認出来ないから止血も出来ない。しかし触れたレノのシャツの感触と、辺りに漂う嗅ぎなれたその臭いから大層な量の出血であることは想像がついた。通常の人間ならば既に意識を保つことすらおぼつかない所かもしれない。
暗闇の奥で光る二つの目がちいさく鳴いた。ルードが振り返ってこの場へと導いてくれた礼を告げると、再びかすかな鳴き声だけが聞こえてきた。二つの緑の瞳の輝きごと、まるで夜の縁に溶けだしてしまったかのように猫の姿は掻き消えてしまった。ルードの腕の中に抱えられている怪我人がぜいぜいと肩で息をしながら尋ねてきた。
「だれも、いない・・・のに?」
「いや…」
口ごもったルードにそれ以上問いかける気力も無い様子のレノを抱え、出来る限り急いで闇の路地を抜けた。人目につかない別の路地の影、頼りにならない街灯の下で手早く傷の位置を確認すると、着てきたシャツの端を裂いて簡単な止血を施してやった。腹部に一箇所、幸い想像していた程傷口は深くはない。ただ出血の量だけは気にかかる。ともかく医者だ。この近くに救急外来のある病院があったことを思い出したルードは、レノの傷んだ体を慎重に負ぶった。これから車を呼ぶよりも歩いた方が早い距離だ。
「るー、ど、さむい」
震える怪我人の訴えに一度その体を背の上から下ろし、薄い肩に気休めの己の上着を脱いでそっと掛けてやると、再び傷口に触れないようにレノの体を背負いなおしてルードは夜の街を歩き出した。
「なぁ…」
「傷に響く。黙っていた方が良い」
「やさしーんだぁ、るーどちゃん」
「…お前が来いと言ったんだ」
「……なぁあ? ど、して…きた?」
「お前が呼んだ」
「でも、ばしょ、わかんなかったろ」
「酒臭い。飲んだのか」
「ちょっとな……うん、おれ、よっぱらい」
へへへと悪びれもせず笑う様子はいつものレノであっていつものレノではなかった。
「あるいてたら、さされた」
「相手は」
「おとこ」
「どんな」
「さぁ……わっ…かんねぇ、ぞ、っと」
「…そうか」
神羅のタークスが聞いて呆れるような回答にも、ルードは何も言わなかった。レノが言いたくないなら聞かない。レノが知らない相手というならそれは本当に知らない相手なのだ。そういうことにしておく。そうしてきた、今までも。
「なぁ、だから、さ」
「…」
「あんた、おれ、よんだけど…こなくっていーんだ、きっと」
「いい加減、傷に触る」
「いーから聞けよ、タコ。――こなくっていいんだ、よんだのだって、きっと」
「気紛れなんだろう」
「そーそー、それ。そゆこと」
「わかった。もう良い」
「まぁた黙れっての?はいはいはーい、るーどちゃんみたいに良い子良い子なあたまじゃないもんねおれ」
「レノ」
「――…まぁ、さ、だから、あんたは来なくて、良いんだ」
「…レノ」
「俺みたいのに、関わっても、ちっとも…良いこと、なんかない」
「あぁ、その通りだ」
「わかってんなら、来んなよ」
「あぁ」
「あんたが俺に付き合う必要なんて、ねーんだ。でも」
「……」
「よかった」
囁くように耳元で小さく言って、すぅと瞼を閉じた。
「…あぁ」
頷いて、ルードは肩の上に預けられたその頭が落ちないように慎重に歩を進めた。




2005/10/10