・おそれを知らぬ子どものように・


四番街のプレートの下、有象無象が蠢く放逐された街、スラムの吹き溜まり。
頬に一風変わったタトゥーを入れた男の姿がそこで見かけられるようになったのはつい最近のことだった。着ている赤と黒のだぼついたボーダーニットは所々擦り切れたように穴が開いているデザイン。ずれ落ちた肩から覘く白い肌、一つに束ねた赤い髪の下からちらちら覘く項も白い。細身の黒のパンツには鋲やピンの装飾に、チェーンとベルトとががんじがらめになって腰から幾重にも垂れ下がっていた。赤毛が歩くたび、それらは皆がちゃがちゃと一緒くたになって音を立てる。
「なぁ、女知らねぇ?女。こーいう奴なんだけどな、と」
赤毛の男、赤い入れ墨の男。一枚のモノクロ写真のみを手がかりにある女を探し回っているとの噂は密やかに、けれど確実にここ数日の間にスラム街へと広がっていた。
「兄ちゃん、あんた、上から来たのかい?」
「そーだぞ、と」
「その女に未練があるなぁわかるが、上の住人がこんなとこをそんなカッコして歩くってぇのは感心しねぇな」
「まぁまぁそー言わずにさ、知ってることがあるんなら、教えてくれよ、と」
毎晩ここにいるから、と。赤毛の男は連絡先にこの近くの朽ちかけたあばらや、所謂売春宿の部屋番号をメモして手渡していた。
そうでなくともこのところ毎晩、赤毛の男は決まった時刻になると四番街スラムにどこからともなく姿を現してはあちこち歩き回って、探している女の居所を聞きまわっていた。従って男が宿にいるのは眠らないスラムが僅かに夜の影を伴う、そのほんの少しの間でしかなかった。
一目で上の住人だとわかるような姿をした赤いタトゥーの男。そんな男が血眼になって探すような女なんだ、さぞかし良い具合をしているんだろう。スラムの煤けた通りに下卑た口調と冷やかしの笑い声が響く。囃し立てる輩を軽くいなして、赤毛の男は今晩も収穫を手に入れられぬまま、つかの間の夜をやり過ごす為宿へと舞い戻ったのだった。



まともに手入れされているようには思えない湿り気を含んだ布団とシーツ、部屋中に煙草と香水と饐えた精液の臭いが染み付いている。
今日で6日目。あと幾日これを繰り返せば良いのだろう。まぁまぁそう焦っても仕方ない。地道にやるしかないさ、現に着実に噂は広まっている。ここにいるのはわかっている。尻尾のつかみ合い、狸と狐の化かしあい。先に音を上げた方が負けだ。
スプリングの全くきかないマットレスの上に、うつ伏せになって思い切り飛び込んだ。そのままの姿勢でしばらくの間、やがてうとうととしてきた頃に遠く、近く、小さく扉がノックされる音を聞いた気がして、レノはがばっと跳ね起きた。
「誰かな、と」
「アタシよ、アタシ。あなたが探してるジュリアンヌ」
「おージュリアンヌ、会いたかったぞ、と」
扉を開けるとふわりと女の安っぽい香水の香りが匂った。レノがニヤリと笑んで女を招き入れると、部屋へ招かれた女も満面の笑みを浮かべた。
「で、お嬢さん。初めまして、アンタが持ってったっていう例のディスクはどこかな?と」
「単刀直入なのね」
「お気に召しませんか?と」
「いいえ、まわりくどい男はキライ」
「それはよかった」
ベッドの上をソファ代わりに隣同士座って、微笑みあいながら見つめ合う男女。けれどその場に漂う空気に欠片も甘さは感じられない。
「その前にね、あなた、神羅の人?それともアバランチの人?」
「…アバランチはアンタの味方じゃないのか、と」
「そうね、それじゃああなたは神羅側なのね。あの男のお友達?それとももっと上の…あの男を始末した人たちのお仲間?」
「どっちも違う、と」
「じゃあ、あなたはだぁれ?」
女の生白い指先がレノの唇に伸ばされる。唇の上を二度、三度、なぞるように辿る指先に、ゆっくりと唇を開き、鮮やかな赤色のネイルに舌を絡み付けるようにしてレノは女の指を舐めた。
「アンタがあの男から奪ったディスクを取りに来た。スラムに逃げたアンタを追ってきた、それだけ」
「他にもあるでしょう?」
レノの舌が指を這い、辿るのをくすぐったそうに見守りながら、女が言う。レノは指を舐めるのをやめた。
「アンタは何か勘違いしてるみてぇだけどな、アイツは別に誰かに殺されたってわけじゃねぇ。平たく言えばリョーシンってやつだ。リョーシンのカシャク。罪の意識。自分がやったことに耐え切れなくなった。ドラッグに手ぇだして、オーバードーズで全身から血ぃふきだして死んだ」
「……小さい男だった」
「ふぅん」
「あなた、悪い子そうね、可愛い」
女の両手がレノの頬を包む。
「お褒めに預かり光栄です、と」
レノが笑って唇を寄せると、女の溜息のような口付けが落ちてきた。
「でもオイタばっかりしてると、愛想つかされるわよ」
「今ンとこは、大丈夫そうだけどな、と」
「あら、誰か良い人いるの?残念」
「まぁ…いないこともないぞ、と」
「しあわせってなにかしら」
「随分話がとぶんだな」
「そんなことを考えながら死ぬのはロマンチックではない?」
「…」
啄ばむようなキスの合間、クスクスと笑いながら、女は続ける。
「あのね、言っておくけど。アタシはそんなつもりなんて欠片もなかったの。あの男が勝手にとってきて勝手に喋って勝手に死んだの。アタシにディスクを渡したのはきっとね、自分が持っていることに耐えられなかっただけ。一人でいるのが怖かったの。誰だってそうでしょ?一人は怖いものだわ。この世に一人きりで居るのは、とても怖いことだわ」
「……」
「だからね、あの男がディスクを持って行けって、逃げろって、スラムに。それで自分がアバランチに流せるように、うまく手筈を整えるからって、そんなの嘘。だってアイツ最初からそんなつもりなんてなかった。ムシャクシャしてたんですって。わからずやの上司とお人よしのふりしてでも影では自分を笑いものにしてる同僚と。昇進も出来ずにいつも一人ぼっちで。みんなに一泡ふかせてやりたかたって。おかしいわよね、バカみたい。会社、会社、会社のために。もっと探せば他のもの、いくらでもあったんでしょうに」
「そうだな」
「だからアタシ、あの男が死んだって聞いて、本当にアバランチに流してやろうと思った。あなたの会社の、例のデータ。あの人ハッキングが趣味だったの。能無しのくせしてそんなことには頭が回るなんて、ほんとにバカみたい。だけどね、ディスク、空っぽだった」
「でも確かにアイツがデータをディスクに落とした痕跡は残ってる」
「もう一つディスクはあったの、でもそれはもうこの世にない。本物はあの男がばらばらに割って、逃げる前にアタシに捨てて来いって言ったから。アタシ、全部捨てちゃた」
「どこに?」
「スラムのゴミ燃やしてる焚き火の中。ここに来てすぐ、おじいさんが火の番してて、その中にみんな投げこんで、とけてなくなった」
「本当に?」
「えぇ。アタシ知らなかった。知ってたらあの男がアレを割るのを止めてた、絶対。だからもうこの世のどこにもないの、神羅カンパニーの機密文書。他に無いことは…きっとあなたたちならわかってるでしょうけど」
「…わかった、アンタを信じる」
「ありがとう」
「そして、さよなら、だ」
レノが布団の下から隠しておいた電磁ロッドを抜き出した途端、血しぶきが上がった。女の血は部屋の天井まで届くと、その上から尚も降り注いでレノの全身を真っ赤に濡らした。
レノは呆然と目の前の女だったものを見つめていた。全ては一瞬だった。レノが女に手を下す直前、女は下着のようなシフォンのドレスの短い裾を太腿までめくり上げると、ガーターベルトの内に隠していたナイフを抜き取って、その勢いのまま自らの頸部に深々とナイフを突き立てたのだ。
絶命する直前に合った女の目。『アタシは殺されたくらいじゃ死なないの』そう言って笑っている気がした。女のクスクス笑う声が頭の中にこびりついて離れない。くすくす、くすくす、レノはその場から逃げるように、窓を破って飛び出した。



深夜、残業を終えて自宅に帰り着いてみると玄関のドアノブにべったりと赤い手形がついていた。
ルードはまずその手形を綺麗にふき取り、家の中に入ってからも点々と赤い痕跡を残し続けていた犯人の行方を追った。
赤色の浴槽で優雅にふやけていたその犯人は、無粋な侵入者に「るーどちゃんの覘き魔、えっち!」と棒読みで言った。
「……終わったのか?」
「あぁ終わったぞ、と」
「湯に浸かる前には体を洗え」
浴室中に漂う鉄くさい独特の臭いと、白いバスタブの中で真っ赤に染まっている湯にルードが顔を顰めながら言った。
「あー次からそうするぞ、と」
やれやれと溜息をついてルードがバスルームから出ようとすると、懐の携帯電話が鳴った。ツォンからだった。
『レノと連絡がつかない。先ほどスラムで例の女の遺体が発見されたらしい。自殺のようだ。レノが女と接触したのか知りたいんだが、お前、あいつのことを…―』
ルードはようやく事情を飲み込んで、バスタブの中のレノを静かに見つめた。
「レノは戻ってきています。任務については成功の模様です。詳しい報告は今から本人にさせます。えぇ、わかりました、失礼します」
通話を終えると、バスタブの中でその様子を微動だにせず窺っていたレノがルードの瞳をじっと見上げてきた。
「どうした?レノ」
「どーもしねぇ…。ただ、女のにおいがする、取れない」
「…血液を洗い流さずに風呂に入ったりするからだ」
「あの女、中身まで安モンの臭いさせてやがる」
腕を上げて、くん、と鼻先でにおいを嗅ぐそぶりを見せるレノに、ルードは僅かな違和感を感じた。
「レノ?」
「くせぇんだ、香水の臭い。ちっとも取れやしない…どろどろだ。香水って腐るのか?それともアイツの中身が腐ってたのか?あ、ひょっとして腐ってんのは俺の方か?なぁ、ルード、ルード、なぁ、どう思う」
くくく、と小さく喉の奥で笑い始めたレノの声は、やがて大きなものになり、浴室中にその乾いた笑い声が響き渡った。
「レノ…何があった?」
「ははは…は・・・は、は」
浴槽の中の赤い髪を掴み、無理やり顔を上げさせてルードが自らの方へと向き直らせると、レノは笑いながら虚ろな瞳を向けてきた。
「死んだんだ、俺の目の前で。殺そうとしたら、先に死にやがった」
「それだけか?」
「それだけだ」
言って、ぶるぶると小刻みに震えだす体を湯の中からそっくり抱え上げてバスタオルで包むと、ルードはそのままレノを寝室のベッドの上へと運んだ。
「一度、眠れ」
スラムで女の追跡を続けている間、ほとんどレノはまともな睡眠を取っていなかった。
きっとそのせいだと思った。何か違和感を感じるのはそのせいだ。ルードも、レノも、それ以上のことは考えないようにしていた。仕事の後の徒労感。一晩眠ればまた、元に戻るだけ。また、朝が来る。また、殺すだけ。
「お前も…」
布団の中から思いのほか強い力で腕を引かれて、ルードはレノの隣に倒れこんだ。スプリングが大きく軋んだ音を立て、二人の体がベッドの上で僅かに跳ねた。
「一人でいるのは、怖い、か?」
すがるような目で見つめられて。ルードはレノの震える体を抱きしめた。
「あぁ」
「そー、か」

しあわせってなにかしら。
一人でいるのは怖いことだわ。

そう、怖いことだ。
包まれる体温にうくくと小さく笑いそうになるのを奥歯で噛み殺しながら、ぎゅっとルードの腕にしがみつくようにして眠った。
眩しい朝日の昇るころ、ルードの腕の中での寝覚めは最悪だったけれど、もう怖くはなかった。




2005/11/06