・きみがみつけてくれたから‐2‐・
いち、に、さん、し、ご、ろく、なな、はち、く、じゅう。
いち、に、さん、し、ご、ろく、なな、はち、く、じゅう。
いーち、にぃ、さん、 しぃ、ごぉ ろぉく―――
十数えて、一に戻る。それからまた十数えて、また一に戻って。
嫌な時間をやり過ごすときの方法だった。数を数えていれば落ち着けることに気がついたのはいつの頃からだっただろう。
数を追う。頭の中に反響する自分の声だけを拾っていれば良い。うるさい声もからだを直接痛めつけられる刹那の苦しみもみんな遠くになる。
解放されてひとりにされたらどこまでも耐え抜いたそんな自分にご褒美をあげる。窓から屋根づたいにこっそり逃げ出す。今日も晴れているのに薄暗い空の下。家の裏手の小さな森を抜け、誰にも見咎められないように足音を殺し、声を殺し、村のはずれの秘密の場所へ。
そこは祈りを捧げるための祭壇なのだ。
もうずっと昔に朽ちてしまった伝説のとある種族が残していった清らかな場所。すでに建物の屋根は落ち、壁は崩れて苔むし、内には草木が縦横無尽に生い茂る。それでもかろうじて残る崩れかかった中央の祭壇の前で、レノはいつも祈る。
さて何に。なんのために祈るのか。
毎日祈ることは一つ一つ違っていた。たとえば一つ、明日は殴られて転んで膝を擦り剥きませんように。
今日はちゃんとこれから夕飯になるようなものを出してもらえますように。
泣きながら頬を幾度もぶたれたりしませんように。
腹立ち紛れに蹴り飛ばされて壁に衝突した勢いで額を切ってしまいませんように。
祈りを捧げて願いを述べて。最後にどうか。
早く大人になれますように。
己の身の処し方を自分で決めることができるようになりたくて、一人で生きていけるようになりたくて。
我慢なんかしなくて良い暮らし。雨風の凌げる家と水と食べ物。
大人になればそのどれもが自分の思うままになるらしい。
子どもだからいけないのだ。子どもであることは悪なのだ。
だからレノは怒鳴られ、金切り声で口汚く罵られ、笑い飛ばされ、十分な食べ物も与えてもらえず、着るものも冬でも夏と同じ一枚を着たまま。
寒さと栄養不足から40度の熱を出して十日間寝込んだときも与えられるその全ては何一ついつもと変わらなかった。
高熱による呼吸の苦しさからなのか、殴られ蹴られた痛みからなのか、朦朧とする意識の中、このままおしまいにしてくれるならどんなに楽だろうと思った。
けれどレノは楽にはなりたくなかった。レノはこれから大人になるのだから。まだ大人になっていないのだから。
大人になって何もかも手に入れていつか狂気の父に。狂気の母に。
いつかおんなじめにあわせてやる、から、な、と。
にやにや笑って想像した。
ぐちゃぐちゃのどろどろ。ミンチみたいにきれいに潰れて皮膚も内臓も筋も骨も脳漿もみんなすり潰されて一緒くたになるその様を想像してわくわくした。興奮した。
口角を上げてにやりと笑えば片っ端から殴られた。なぜ殴られているのか理由はよくわからなかったが、そのこたえは単純だった。
赤い髪だ。
レノの父はこの村でも代々村の長を務める人材を輩出することで知られた名家の一人息子だった。
レノの母はなんとかいう都会のこれまた大きな会社にお勤めの父を持つ所謂ご令嬢だった。
辺鄙な村に半ば政略結婚のようにして嫁に出されたレノの母はやがて子どもを身ごもった。
生まれた子どもは赤い髪だった。
それがレノの父の逆鱗に触れた。
レノの父の髪は黒かった。レノの父の両親の髪もまた黒かった。そのさらに両親も黒い髪をしていた。何代先を辿れども一族に赤い髪の人間はいなかった。
そしてレノの母の髪は絹糸のように美しい輝きを放つ淡い淡い金の髪だった。
レノの母の父母もそのまた父母もそのまたさらに父母も皆美しい金の髪をもっていた。それが誇りでもあった。
赤い髪は誰のものか。この村に赤い髪のものなど誰一人いやしない。
ただ丁度一年ほど前、旅の男が村に投宿したことがあった。
男の髪は燃えるような赤い色。
村に外部から人間が入ってくることは旅行者であっても珍しいことだった。ゆえに皆がその男のことを知っていた。覚えていた。
男は一週間ほどの滞在で村から去っていき、一年後燃えるような赤い髪をしたレノが生まれた。
真相は闇。真実は誰にもわからない。それを知るのは唯一レノの母のみだけれど、彼女は誰に責められても泣き崩れるばかりで何一つたしかな言葉を口にしなかった。それは濡れ衣であるからこれ以上責めないで欲しいという意思表示だったのか、単に真実そうであることを責め苛まれるのに耐えられなくなった上での懇願だったのか。彼女は是とも非とも答えることなくただひたすら許しを請い続けた。
やがてそんな父の叱責に母が壊れ、母の狂気に父が便乗した。こうしてレノはこの星に生れ落ちて幾許もたたぬうちに酷い折檻を受ける羽目になった。
その後再び身ごもった母が産んだ子の髪は黒かった。美しい黒髪の女の子だった。
レノは以来屋根裏の一室に軟禁状態でぶちこまれたまま外に出してもらえることなく今日まで生きてきた。
「なかったこと」にされたのだ。
生かしてはくれる。けれど折檻というには余りある暴力は、顔も名も知らぬレノの「妹」が生まれてからも変わりなく繰り返された。繰り返し与えられるそれらは、とてつもなく痛くて苦しくて辛いけれど、いずれも死に程遠い方法でもってレノの身を苛んだ。
特に初めのうち、聞き分けられなかった「誰か」の屋根裏へ上がってくる足音はレノを幾度も恐怖のどん底へと叩き落した。
下から上がってくる人の足音を聞きつけこれから与えられる恐怖を想像すると、自然手足はびりびりと震えだし、頬は引き攣り、仕舞いには耐え切れずに失禁さえしてしまうことがあった。その姿を見られてしまうこともまたレノにとってはおそろしいことだった。汚い不潔だ不快だと罵られる。どんなに謝って反省しているようなふりをして見せても普段の倍の時間は殴ら続けるのだ。
それでもそんな暮らしを続けていた甲斐もあってか、幸か不幸か近頃は食事を運ぶ役目を与えられたメイドと、母と、父と、三人の足音を聞き分けられるようになった。そうしてレノは少しだけ落ち着いて暮らせるようになれた。
折檻を受けている間、できるだけ違うことを考える、別のことに集中する術を編み出してからはもっと落ち着けるようになった。
折檻の後、屋根裏の小窓から屋根伝いにこっそりと抜け出し、外に出る方法を見つけ出してからは日々の暮らしに怯え続ける生活からほんの少しだけ解放されたような気になれた。レノはやっと、文字通り羽根を伸ばせる場所を見つけたのだ、自分だけの居場所を。打ち捨てられて村中の誰からも顧みられないその秘密の場所はまるでレノ自身のようで、それだけでとても愛おしかった。壊れた屋根の上にかぶさるように、生い茂る木々の間から僅かに毀れる光に反射して、七色の光を放つ割れたステンドグラスの破片すら、レノをあたたかく迎え入れてくれた。硝子の光が落とす鮮やかな色彩の影に手を伸ばして触れるたび、ここにいることを許されているような気持ちになった。
レノはいつも一人だった。
膨大な時間を持て余して一人でいた。
大人になったらここから抜け出せると信じてきた。
そのつもりだったけれど近頃はそれすら信じることが出来なくなりかけていたから、いつも必死で祈った。すがるように今日も祈った。最早何に何を祈っているのかすらよくわからなかった。けれどその習慣をやめてしまうことはいよいよレノがレノではなくなってしまうことのようにも思えて怖かったから、祈ることだけは続けていた。
何一つ頼るべきものを持たないレノは馬鹿ではなかったから、このままここに居ても何も変わらないことだって知っていた。
それでも囚われたまま家を逃れられないこともまた、レノ自身が一番よく知っていた。
だから逃げ出したいと思っても本当に逃げ出すことは出来なかったし、大人になりたいと祈るレノの身長は少しも伸びなかった。
これっぽっちも期待なんかしていなかった。
自分以外の何者にも期待なんか出来ないことは、誰よりも知っていた。
それが孤独と呼ばれるものであることすら、知らなかった。
2005/12/27
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