・きみがみつけてくれたから‐3‐・


その日もレノは殴られたばかりの両頬を腫らし、切ってしまった唇に血を滲ませて、生い茂る木々の間を足音を立てぬように注意深く歩いていた。
レノは同い年くらいの他の子どもたちに比べて背も低かったから、背丈ほどある草木の間を縫って早足で歩く間、通りすがりに万一誰かに出会っても、きっとそれは傍目には風に煽られた草がかさかさと音を立てているように見えただろう。
家の裏手の小さな森は一応はレノの家の敷地内にあるのだが、昼日中でも建物と木の枝の陰になっているせいか暗くじめじめとしていて、手入れもろくにされていなかった。だからこそレノはここを自分だけの隠れ家に出来たのだ。
家からすると正反対、森の出口に程近い、森の中でもやや明るく開けた場所に目指す隠れ家はひっそりと存在していた。
柔らかく光の降り注ぐステンドグラスを前にして、レノは祭壇の前に設置してある崩れ落ちかけた木製の長椅子にすとん、と腰を下ろした。
目を眇めて割れたステンドグラスの合間から差し込む日差しに手を伸ばす。いつものように両手に掴んでもつかみきれない光を浴びて、レノは瞳を閉じた。
瞳の奥がじんわりと熱くなるのを感じたからだ。
疲れていた。今日も体中が痛んでいた。頬、腕、それに子どもらしくまるい膝小僧。擦り剥いたり、青く、時には内出血を伴い赤黒く変色した痣たちの数。もはや数えたくもなくなるようなそれらの場所を一つ一つ確認して、増えた傷の位置を覚えこんだ。
なるだけ傷の数が少なくなるような姿勢で敵からの攻撃を受け流す。そう、これはゲームだ。シュミレーションだ。最後に勝てば良いだけだ。そうだ。
言い聞かせるだけむなしくなった。増えた傷と治癒して減った傷の数を数えてもいつだって増えた傷の数の方が多いのだ。こんなもの、いつかレノの体が完全に壊れてしまうまで続けられるだけに決まっていた。レノはこのゲームには一生勝てない。
怯えるだけ逃れるだけ無駄だ。死ねば良いのに。このまま死んでしまえば良いのに。生まれて来なければ良かったのに。
「うるさい…」
うるさい。うるさい。うるさい。耳を塞いで長椅子に横になった。体を傾けた拍子に椅子に当たった部位の傷が痛んだ。


「あのさ、きみ、こんなところで寝ていると、風邪引くよ?」

――あの、きみ…ねぇ…起きて…。

うるさい。うるさい。うるさい。起こすな、叩くな、揺するな。
「痛ぇんだよ…なに、すんだ」
「あ……ごめん」
半分だけ瞳を開く。うっすら靄がかかったような視界の先、黒い髪の子どもがいた。
「おまえ……なんだ?」
天使かと思った。だから誰、とは聞かずに何、と聞いた。その子どもはレノとは違う上質の生地で仕立てられたシャツを着て、サスペンダーつきの半ズボンを穿いていた。切り揃えられた髪にきちんと櫛も通していた。身形の良すぎる子どもだった。だから寝ぼけ眼のレノは咄嗟に思ったのだ。とうとうお迎えって奴がきてしまったのか、と。
「あの…僕、昨日この村に着いたばかりで」
「は?」
「……いや、迷惑だった?」
「何が」
覚醒したレノは長椅子の上から跳ね起き、目の前に立っていた子どもに立ち向かうようにして椅子から降り立った。
「いや、きみが、とても、気持ちよさそうだったから…」
どうやら子どもはレノがここであまりに心地良さそうに眠っていたから、起こしてしまったことに対して腹を立てているのではないかと不安に思っているようだった。それならそれでもっとものの言いようというものがあるだろう。見た目にはレノより背も高いくせに、これがアレか、木偶の坊って奴だな、とレノはその同い年くらいの子どもを感心するように一瞥した。確かにレノは今目の前の子どもに対して腹を立てている。そのことを思うと、こいつも中々勘の方は悪くないらしかった。
「お前さ、なんでそんなにまだるっこしい喋り方しかできねぇの?もっとちゃっちゃと必要なことは話せっての」
「……」
口を噤み、真っ赤になって視線をあちこちに彷徨わせながらおろおろするばかりの子どもにレノははぁぁ、と盛大な溜息をついてみせた。
「もー良いから。んだよ…おどかしやがって。良いかお前、俺はココにいることが誰かにバレちゃまずいの。わかったらとっとと帰ってくれ。新入りなのかなんだか知らねーけど、こんな辺鄙な村に越してくるなんて物好きもいるもんだな。村の連中のことが聞きたいんならよそをあたるんだな」
「……うん…」
「わかったらとっととうせる。じゃあな」
「まって…」
「今度はなんだよ」
「ごめん……本当に。今、僕も退屈してて、その、明日もまたここに来る?」
「さぁな」
「……そっか」
あからさまにしょげ返る子どもに、レノは少し慌てて言い繕った。
「なんだよ、そんな顔すんなよ。俺にだって自分の都合ってものがあるんだぞ」
本当は明日もあの家をうまく抜け出せてこれるかわからないから、だったのだけれど。
それを口にすることはプライドが許さなかった。
「じゃあ、君はどこにいる?」
「どこって…」
「僕は今村はずれの酒場に世話になっている。君がもしよければ…」
子どもが次に何を言い出すか察知したレノは遮るように声を上げた。
「よかねーよ。俺には俺の都合があるって言っただろ」
「それじゃあ僕が待ってる。明日も明後日も、ずっと、ここで」
「はいはい。じゃあな。俺は帰るしお前がいるんなら明日も明後日もここには来ねーよ」
そのまま立ち去ろうとしたレノの腕を子どもは力任せに掴み上げた。殴り飛ばされて打ち付けたばかりの傷のすぐ上だった。途端に走る激痛に顔を顰め、すがり付く腕を払いのけて蹲った。
「……ごめん…もしかしてどこか…怪我、してる?」
突然のことに子どもは蹲るレノを心配そうな瞳で見つめてきた。顔中のあざ、切り傷。唇に滲む血の跡。全身に目を向ければ一目瞭然だった。手当てをろくに施されていないむき出しの傷口が服の隙間から飛び出していた。
「……」
その様子にようやく気がついた子どもが驚きのあまり絶句しているうちに、レノは勢いよく祭壇の前に飛び出し、逃げるようにその場を去った。
見られた、あんな子どもに。あの木偶の坊に。自分がどんな目にあっているのか、初めて目の前の赤の他人に悟られた。
ちくしょう、悔しい。なんだってあんな奴に。あんな間抜けなガキなんかに。
奥歯をぎりと噛み締めながら元来た森の中の道なき道をレノは駆けた。
こみ上げる悔しさと恥ずかしさとむなしさで心は弾け飛びそうなほど震えていた。



2006/1/8

ついにご対面です。