・きみがみつけてくれたから‐5‐・


翌日、ルードは母にクロッキー帳を借りて一人だけで昨日の森へと向かった。
磁石と歩数を確かめ、周囲の景色を慎重に見比べながら、簡単な森の中の地図を作成しつつ向かうその先はただ一つだ。
森のはずれ、朽ちかけた祭壇のあるその場所。今日も来るだろうか、昨日のあの子。
会えたら、何て言って声を掛けようか。その場所へ近づくにつれて、緊張から、軽く握ったルードの手のひらの内はしっとりと汗ばんくる。
形ばかりの木の扉の、表面がぼろぼろになって剥がれ落ちかけているそれに手を掛けると、蝶番のきしむ嫌な音とともにゆっくりと開いた。
草木がまばらに生えている中を、後ろから一つ一つの長椅子の内側を確認しながら進んだ。またあの子が椅子の上に寝そべっていることを期待していたルードは、けれど一番前の祭壇までやってきても、その子の姿を見つけることはできなかった。
「もう来ないのかなぁ……」
祭壇の前の椅子の上に座りながら、ぼんやりとルードはひとりごちた。
ルードが来るなら来ないと、確かにそう言っていた。
それでももしかしたら、とほんのわずかの可能性に期待して来たルードにとって、あの子を待っている時間は今までこの村で過ごしてきたどんな時間よりも長く感じられていた。
暇をもてあましてしまったルードは、仕方なく目の前の祭壇の様子を、借りてきたクロッキー帳に描き始めた。
母が日ごろ使っているスケッチブックよりも幾分小ぶりのサイズのそれは、ルードの小さな手にも扱いやすいものだった。
クレヨンよりも鉛筆を好むルードは、鉛筆のみで細かいところまで丁寧に絵を描いていく。
祭壇を描いた後は、祭壇から見た長椅子の風景を描いた。それでもルードの待ち人はやってくる様子がなかったから、ルードは仕方なく、日が暮れるまでそこでじっと絵を描き続けていたのだった。
そうしてその日は一日、待ちぼうけで終わってしまうことになったのだ。


すっかりしょげかえって宿へと戻ってきたルードに、母はルードが楽しくなれるような、面白い話をたくさんしてくれた。
それでもルードは元気に話をする気分にはとてもなれなかった。
早々に布団にもぐりこんでから、ルードは明日、もう一度あの場所へ行こうかどうしようかと布団の中で悩んでいた。
もう一度行って会えればそれで良い。けれど、もしまた会えなかったなら。
ルードは今日以上にがっかりしている自分の姿を思い描いて、悲しくなるのだった。



その次の日は雨だった。
ルードは午前中から、宿の中で窓の外の風景を見つめながらそわそわし続けていた。
雨の降る森の中は危ないからと、ルードが決めるまでも無く、母はルードが今日も森へ行くことに反対したのだ。
朝のそんなやりとりもあって、午前中はずっと、ルードは宿の中で過ごしていた。
こんな天気の悪い日には、きっとその子も来ないわよ。
ルードが話す前に森へ行く理由を察していた母は笑ってそう言ったけれど、ルードはこんな日だからこそあの子がやってくるのではないかという予感がしていた。
ルードが来なさそうな日を選んで。鉢合わせしないように、誰にも見られないように、一人きりで。
あの場所で、きっと、一人きりで。

「ごめんなさい、母さん」
ルードは母の部屋にそっと書き置きを残すと、レインコートを羽織り、傘とクロッキー帳を手にこっそりと宿を抜け出して走った。
一人きりであの場所に、あの子が何を求めてやってきているのかなんて、想像すればするほど居ても立ってもいられなくなったのだ。
昨日、長い間一人ぼっちで待つ間、ルードは酷く寂しい気持ちになっていた。
あの子があの場所へやって来ていた理由はわからないけれど、もしも昨日、ルードがあの場所で感じたような、寂しい気持ちになるためにやってきているというのなら、それはあまりにもかなしすぎた。
美しい場所だけれど、それ以上に寂しい場所なのだ。捨てられ、誰からも省みられず、時がたつのにまかせて朽ちていく。
そんなものを求める気持ちは、今のルードには理解できないものだった。

森に入ってすぐ、草木が含んだ水分や歩くたびに跳ねた泥が体中を汚してしまった。
ルードのお気に入りの靴下も、泥水でじっとりと水気を含んで、靴の中は酷く気持ちが悪かった。
晴れた日の倍は時間をかけてたどり着いたその場所の扉を開けると、屋根の役割を果たしていない屋根から吹き込んだ雨で、長椅子はどれもびしょぬれだった。
こんな状態では、やはり今日もやって来ないのだろうな、と期待を砕かれながらも、長椅子の間を見て回り、ルードは祭壇の前へとやってきた。
祭壇の前の長椅子ももれなくしっとりと雨に濡れていて、とても座れるような状態ではなかった。
帰ろうかとくるりと振り向こうとしたとき、祭壇の大きな台の下から僅かに音が聞こえて来たような気がして、ルードははっとしてその下を覗いてみた。
「あーあ、見つかっちまった…」
「君は…」
「お前が入ってくんのが見えたから、こっちにわざわざ移動したんだぞ」
傘も持たず、全身ずぶ濡れの姿のままでにかっと笑って、赤い髪のその子は言う。
ルードは口を二度三度ぱくぱくと無意味に動かした後で、ようやく話しかけることが出来た。
「えっと…服…着替えた方が良いよ、濡れてる」
「あーめんどくせぇし。つーか、着替えるもんなんて、ねぇし」
「僕のシャツを貸すよ。コートを着てるからシャツは濡れてないと思うし」
いそいそと羽織っていたコートとシャツを脱いで手渡すルードに、赤毛の子供は驚いたように大きな瞳を見開いた。
「…お前、これ、まずいだろ」
「何が?」
「その…さ」
「僕はシャツの代わりにコートを羽織れば寒くないから」
「……じゃ、借りとく」
言って、着ていた服をすぐさま脱ぎ始めようとするのを慌ててルードは止めにかかった。
「わ、待って待って!僕はその、見ないでおくから…えっと…女の子の着替えは見ちゃいけないって…母さんが」
「は?」
「だから、その、君は女の子だから…あんまり人前でそうやってどうどうと着替えるのは…その…」
「だぁれが女だって?」
「え……?」
途端に不機嫌そうな表情になる赤毛の“彼女”の横顔を見つめながら、ルードはようやく自分が犯していた重大な間違いに気がついたのだった。
「君…って…もしかして…」
「もしかしなくても男だっての!はーん…さては俺様が女に見えたからってお前そーいうつもりでここにも通ってたってぇわけか。わっかりやすい奴!ごしゅーしょーさま。俺は見ての通りの男だよ、ほら」
鼻で笑い飛ばしながら、赤毛の“彼”は服を全て脱いで見せた。ほら、と見せ付けられた下肢にはルードと同じ形のそれがしっかりと備わっている。
「…うわっ……ほ、ほんとだ…」
「ったく……いちいち突っかかってくんのがうぜぇんだよ。これでもうお前の目的はなくなっちまったんだから、とっとと帰るこったな」
苛立ちを顕わにしながらルードにシャツを投げ返し、着ていた服をもう一度着込むと、彼はぷい、とそっぽを向いて言った。
あまりの急展開にしどろもどろになったルードは、二の句を継げないままである。
「……でも、その……やっぱり、これ、着ててよ。それでさ、もう少し、ここにいてくれないかな」
「お前が帰らねーんなら俺が帰る」
「わ、ほんとに、ごめんなさい!僕、あやまるから!ごめんなさい!」
つかつかと早足で長椅子の間を入り口の扉の方へ向けて歩き出す赤毛の彼に追いすがりなら、ルードは何度も謝った。
「そーいうとこがうぜぇっての。もう来んなよ!」
「待って!」
ルードの制止にもかまわず、扉が軋む音と共に赤毛の彼は出て行ってしまった。
取り残されたルードはため息をついて、扉をいつまでも見つめることしか出来ずにいたのだった。




2006/4/23