・きみがみつけてくれたから‐6‐・


さっきまでひたすら寒くてふるえていたのに今度は体が熱くて仕方がなかった。
乾いたほこりまみれの部屋の隅で毛布からは程遠い湿った布切れを頭からかぶっていた。
段々気が遠くなってくるのは気のせいではない。頭が割れるように痛む。
朦朧とした意識の中で浮かんでくるのは思い出すのも腹立たしい子どものことだった。
自分を女だと思っていた男の子ども。なにもかもあいつのせいだ。調子が狂って仕方がない。
どうして自分なんかに構おうとする。何があの子どもの気を引いた。どうして。
目を閉じればあの興味津々の黒目がちな大きな瞳がどこまでもレノを追いかけてくるような気がして、レノは頭を振った。
胸が熱い。瞳が潤む。吐き出す吐息はどこまでも乾いていて、だんだんと現実と夢の境目がわからなくなるような気がした。
夢の中でレノは砂漠をさまよっていた。出口のない砂漠の中を太陽に焼かれながらひたすら歩いていた。
砂漠の砂に足をとられて倒れそうになるレノはけれどその強靭な意志の力で幾度も立ち上がって、最後は這うようにその砂の大地を進んでいた。
あと一歩前へ。少しでもその先へ行かなければ。逃げなければならない。いったい何から。それすらもわからない。
喉の渇きも飢えも何もかもがその極みに達したそのとき手を差し伸べてきたのは一番思い出したくなかったあの子どもだった。
現実のレノはその差し出された手を振りほどこうとしたはずなのに、夢の中でレノは子どもの手を握っていた。
ぎゅっと握り締めて、しがみつくように離さずに。白い大地はどこまでも続き、レノの手を握り返した子どもはレノを支えるように抱き起こした。
そのときレノは子どもに何がしか言葉を発したようだったけれど、夢のレノがなんと言ったのかは当の本人にもわからなかった。

目が覚めたのは殴られた衝撃のせいだった。

レノが熱を出していることを察したその手はいつも以上にレノの体を嬲った。
そうでなくとも抵抗することは始めから放棄しているというのに。残酷な大人の手がいったい何を恐れレノの向こうに何を見ているのかレノにはわからなかった。
ただただひたすらに逃げ出したいと願った。
どこかへ、遠くへ。それはあの夢でみた砂漠の風景と重なってレノの瞳をかすませた。
会いたい。
あの手が自分を救い出してくれるのだろうか。本当に。それは現実になり得るのだろうか。
許されるならもう一度、どこかへ連れて行って欲しい。

きっと今度はその手を握ろうと思うから。




「ごめんなさい」
雨の中、言いつけを破って出て行ったルードを母は帰ってくるなり強く抱きしめてきた。
心配して森の中を探してくれていたようだった。森の所有者である一族の人々も総出でルードを探してくれたそうだ。
大勢の人に心配をかけて、なんてことをしたのと母はルードを叱った。
温和な母が声を荒げてルードを叱ったことなどこれまでただの一度もなかった。
初めての出来事にその日はルードもすっかり沈んでしまっていた。
ただでさえ昼間の赤い髪の「男の子」とのやりとりにショックを受けていたのだ。すっかり気落ちしてしまったルードは早めの夕飯を済ませると、父と母に改めて心配をかけたことを反省していると話してから、おやすみを言った。
両親はそんなルードの謙虚な態度にやさしくうなずいて、それ以上は何も言わなかった。母は眠る前にひさしぶりにルードのほほにおやすみのキスをしてくれた。もう初等科に入ったのだし、子どもではないのだからと近頃頑なに拒否していたそれはくすぐったいけれどやはり心地の良いもので、ルードはその夜穏やかな気持ちのまま眠ることができた。

翌朝もその次の日も、ルードは森には行かなかった。
なんとなくあの子と気まずい分かれ方をしてしまった手前、会いに行きづらかったし、何より雨の日の出来事からなんとなく気がとがめてしまって、ルードは森に足を向ける気持ちになれなかったのだ。
三日目の朝、いよいよ翌日の昼にはこの村を去るというその前日、ルードは意を決して森の中へと足を踏み入れた。
今度は母に事情を話し、仲良くなれた子どもに会いに行くと説明して、ルードは森へとむかった。
よく晴れた朝だった。やわらかい日差しが差し込む森のはずれ、ルードがおそるおそるその扉に手をかけると、まるでルードを招き入れるかのように音もなく扉が開いた。
彼は、いる。きっとここに今、来ている。
なぜだかわからないけれど確信をもってルードは歩き出した。一つ一つの長椅子の間をくまなく探し続け、ついに一番前の祭壇のすぐ手前の椅子の上で眠る赤い髪の姿を見つけた。
痣だらけの酷い顔と手足に思わず言葉を失った。
ルードが声をかける以前に気配に気づいたのか、赤毛の子どもはがば、と勢いよくその身を椅子の上から起こした。
「……なんだ、おまえか」
「ひどい言い草だね」
「だからしつこいっつってんだろ。いーかげんにしろよ。てっきりもう帰っちまったのかと思ってた」
「…知ってたの?」
ルードは驚いて目を見張った。確か以前、彼はルードが村に新たに越してきた子どもだと勘違いしていたのだ。そしてその勘違いを今日までにルードはうまく正すことができていなかった。
「知ってたもなにも。こないだ…三日前んとき、うちの人間が森の中でお前のこと探してるみてーだったから。お前、ミッドガルから来たんだってな?」
「ってことは君、あのお屋敷の…」
「おっと、それ以上言うなよ。俺はあの家じゃなかったことにされてるんだ。お前のことも直接誰かから聞いたわけじゃない。ただうちの連中はみんな揃って声がでかい。どんな馬鹿でも聞いてりゃ大体想像がつく。それだけだ」
「……」
ルードには彼の言わんとすることがなんとなくわかってしまった。
だから頷くに留めておいたけれど、それはつまり、ルードの想像のつかないほどひどいことなのだろう。
全身の赤黒い痣が何よりそれを雄弁に物語っていた。口の端を赤く染めながらにんまり笑ってみせる彼が改めて痛々しかった。
「だからさ。ひとつだけ…お前に頼みがある」
「なに?」
突然請われて、ルードはどきりと心臓を跳ねさせた。
「お前が帰るそのとき、俺をミッドガルに一緒に連れてって欲しいんだ」
さっきまでへらへらと笑っていたはずの彼の口調と表情が一変した。この世にこれ以上悲しい表情があるのをルードは知らなかった。
「わかってる。そんなの、無理だよな」
じょーだんじょーだん。本気にすんなよ、っと。
無理やり笑った彼の表情がみるみるうちにゆがむのをルードは見た。細めた瞳から大粒の涙が一滴落ちるのを見た。
「……わかった、なんとかやってみる」
「……そんなの、無理だ。無理に決まってる」
「無理じゃないよ。僕は明日ここを発つ。君は明日の正午にこの場所に来るんだ。良いね?約束だよ」
「無理だ」
「無理じゃない。きっとできる。指きりしよう?僕は絶対に約束を守るよ。君を明日ここに迎えに来る。だから君も約束を守るんだ。絶対、明日、あのお屋敷を抜け出してここに来るって」
「いやだ!」
彼はルードが差し出した小指の先を拒むように祭壇の方へと体を引いた。
「できるよ。きっと。僕は約束を破らない。君が誓ってくれるなら、なんとか母さんや父さんを説得してみせる」
揺るがない黒目がちの瞳で見据えた赤い髪の彼はおびえるように祭壇の影に隠れて出てこない。
「指きりの仕方、知ってる?」
「……しらない。やったことなんか、ない」
誰かと約束をかわしたことなんか生まれてこの方なかった。生まれて初めての唯一無二の約束だった。
おいでよ。ルードが伸ばした手ををためらいながらも彼は握った。
小指と小指の先を絡めて約束した。
祭壇の上で祈った。
神様神様、星の神様、どうか僕たちに、僕たちの約束をおまもりください。ぜったいにやぶらないと誓います。どうか許してください。見守っていてください。
彼に希望をください。
「そういえば君、名前は?僕はルード」
ルードが告げると、赤毛の子どもは少しためらうように目を伏せながら小声で名乗った。
「……レノ」
「良い名前だね」
どうかレノに、希望をください。






2006/10/09