・「狭霧の檻」より抜粋・
寒い日の休日はどこにも出かけたくなくなる。レノは前日の夜から転がり込んでいたルードの家のベッドを占拠し続け、その日は午後になっても、延々惰眠を貪り続けていた。
まっさらで肌触りの良いコットン素材のシーツと、太陽の匂いのするもこもこの毛布、ふわふわの羽毛布団。それらに加えて枕や布団に染み付いたルードの匂いが何より心地よく、レノをベッドの中に引きとめ続けているのだった。
朝から毛布に包まったまま出てこようとしないレノを起こしに幾度と無く寝室へ入っているルードは、その愛らしい寝顔につい起こそうとした手を引っ込める羽目になってしまい、レノを起こせないまま今の時刻までずるずるときてしまっていた。
今度こそは、と決意を胸に再び寝室に入ったルードは、あどけない寝顔を晒して眠るレノに思わず抱きしめてキスしたくなる衝動をぐっとこらえて、昨夜の名残が点々と赤く残る肌の上をそうっと撫でると、むき出しの白い肩を揺すってやさしく愛しい眠り姫の名を呼んでやった。
「レノ」
呼ばれて幾度か肩を揺すられても、もぞもぞと擽ったそうに身じろぎするばかりで、夢の中から一向に這い上がろうとしないレノに困ったルードは、とっておきの魔法の言葉を使うことにした。この一言で眠り姫が百年の眠りから目覚めることを期待して。
「今日は今からお前の好きなパテを作ってやる。だから起きるんだ、レノ」
「マジで?」
途端にぴくりと反応したレノは大きな瞳をぱちりと見開き、ベッドの上からルードを見つめて尋ねてきた。ルードが穏やかに頷くと、レノはすぐに跳ね起きて身支度を整え、パテの材料を買いに行こうとルードを急かすのだった。
北の海でとれる魚をベースにしたアイシクル風パテは、以前レノがルードにどうしても食べたいと頼み込んで作ってもらって以来、レノの大好物になっている料理だった。
そのレシピは通常のパテのレシピをわざわざルードがレノの好みに合わせて作り変えたもので、作るのに手間がかかりすぎることから、時間のある休みの日以外には中々お目にかかることのないとっておきのメニューの一つでもあったのだ。
久しぶりにそれを作ってもらえると聞いてレノは上機嫌で、ルードと一緒に材料の買い出しへと出かけた。
ところが買い物を終えて帰宅して、さぁこれからパテを作ろうかというところで、ルードはレノに申し訳なさそうに告げたのだった。
「レノ、すまない……どうしてもパテのレシピが思い出せない」
リビングでわくわくしながらパテが出来上がるのを今か今かと待ちわびていたレノは、そんなルードの突然の言葉に衝撃を受けていた。
「は?何言ってんだよ……ルード。お前頭でも打ったのか?と」
「いや……確かに材料まではきっちり買えたのに、肝心の分量が思い出せないんだ。通常のパテならば作ってやれるんだが…その」
ルードの頭の中にだけあったはずの、レノのためのレシピがどうしても思い出せないのだという。レノは楽しみにしていたその分の期待を裏切られたことに腹を立て、ルードを詰り、思いきり責めた。
「忘れたって……んだよ、こっちはてめーがああ言ったからわざわざ買い物にもつきあってやったんだぞ!ふざけんなこのタコ!」
「本当にすまない……レノ。かわりにオムライスでどうだろう。こっちも好きだろう?」
ルードにあの手この手で宥められて、渋々頷いたレノはその晩パテになるはずだった材料の一部を使って作られたオムライスに舌鼓を打った。空腹が満たされたレノはすっかり満足してその晩もルードと一つのベッドを分かち合い、たっぷり朝まで愛し合った。
ルードがパテのレシピを忘れてしまった以上、しばらくお気に入りのメニューともお別れせざるを得ない。またレシピを作り直してやるからとベッドの中でも慰められ、いつもよりずっとたくさんのキスをもらって、レノはその心地よさに、次の朝にはあれほどこだわっていたパテのこともどうでもよくなってしまっていた。
今思えば、丁度一週間前の休日に起きたそれが全ての始まりだったのだ。ルードの不思議な物忘れはそれだけではすまなかった。
◇◇◇
ルードが記憶障害を起こしている。
ツォンが医師から連絡を受けたのはレノが調査課を飛び出してすぐのことだった。先ほど再び眼を覚ましたルードの様子におかしな点があるというのだ。レノの仕上げた、とは言いがたい報告書の事後処理に追われていたツォンはすぐに神羅ビルに隣接する軍病院へと足を運んだ。
ルードに宛がわれていた特別個室の入り口に近づくに連れて、なにやら大きな物音が聞こえてくるのがわかった。ツォンはいぶかしみながらも足早に病室に向かい、扉をノックした。中から聞こえてきたのは穏やかな返答ではなく、レノの怒号だった。
「ふっざけんなてめー!」
「お、落ちつきたまえ君!彼には今は静かな環境が……」
「静かもクソもねぇだろ!誰が俺様の顔忘れて良いっつったよ、あぁ?お前の三流芝居なんてとっくにお見通しなんだよ!とっとと仕事戻んぞ、ルード!」
「だから……―」
病室の中で繰り広げられている光景に思わずツォンは頭を抱えそうになった。静かでなくてはならないはずの特別個室で暴れまわるレノとそれを宥める医師と看護士。ベッドの上で至って冷静にその様子を見つめているこの部屋の主、ルードだけが唯一の救い、のように見えたのだが。
「だから、さっきから、お前は何者だと聞いているんだ」
レノの方を見ながらきっぱりと告げられたルードの言葉に、ツォンは冷や水を浴びせかけられたような気持ちになった。
記憶障害とは、つまりこういうことだったのか。
「いいかこの筋肉ハゲ!俺はお前の仕事の相棒だっつってんの。お前のそのちっせぇ脳ミソちゃんにせめて俺様のことくらいは覚えさせてやんねーとこれからかわいそうだと思ってわざわざ来てやったんだぞ、と。有り難いだろ、と。ん?なぁ、ルードちゃん」
「ツォンさん、この無礼すぎる男が本当に俺の同僚なんですか…?」
病室に入ってきたツォンの顔を見て、ベッドの上から軽く会釈して言われたルードの言葉に、今度はレノが顔色を青くする羽目になった。
ルードは全てを忘れていたわけではなかった。ただレノのことだけを忘れてしまっていたのだ。
ショックを受けるレノをなんとか部屋の外へ引き摺り出し、ツォンは医師の診断を待った。一通り診察を終えた後、ツォンにも医師の前でルードと面会する機会が与えられた。
レノを待合室に残して医師とともに病室へ向かったツォンは、再びルードからレノのことを尋ねられた。
ツォンが確かにレノはルードの同僚であり、タークスの一員であることを告げると、信じられないといった具合にルードは首を傾げた。
「あんな人間が神羅のタークスだなんて……」
「お前が信じられないというのも確かに無理はないが……レノはあれで中々有能な働きをする。まあ今はお前も目覚めたばかりということもあるだろうし、焦らずともしばらく静養すれば記憶も戻るだろう。今は体を癒すことに徹するんだな。回復して何よりだ、ルード」
「ありがとうございます、ツォンさん」
話はそれで終いだった。
ツォンは医師とともに病室を後にすると、病室の目の前に設置された待合室の椅子に項垂れるように座るレノに声を掛けた。
「レノ」
(以下続く)
2006/3/14
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