・02 普段は医者、だけど殺し屋・


その冬初めての雪が降った朝だった。
いつもの年にくらべて雪が降るのが酷く早かったことを覚えている。
昨晩から降り続いていた雪が城郭の上を白く染め上げているのを目にして、隼人は防寒着を持ってきたメイドの制止も構わず中庭へと飛び出した。
外に出て胸いっぱいに吸い込んだ空気はからからに乾いて冷えていて、吐き出した息はすぐさま白いかたまりになった。
凍てつくような寒さと乾いた空気の中だったから、その人の足音はすぐに隼人の耳にも届いたのだ。
「だれ……?」
霧のせいで少し先の視界には靄がかかっていた。雪を踏みこむ姿の見えない誰かの足音は次第に近づいてくる。正体を暴いてやりたい。思い立った隼人はその足音の方へ向かってすぐに走り出していた。
隼人が近づいてくることに気づいたのか、聞こえていたはずの足音の主はぴたりと動きを止めてしまったようだった。音が止まってしまうと靄の中で隼人にはその人物がどちらの方向にいるのかもわからない。途方にくれて立ち止まった隼人は不意に背後から伸びてきた大きな手に口を塞がれて、ひっ、と小さく悲鳴を上げかかった。
「しぃ……」
耳元でささやかれた声は良く知っているものでほっとしたけれど、突然口を塞ぎにかかるその無神経さに腹が立って、静かにするように促されたばかりにも関わらず隼人は声を上げて抗議に出ようとした。
背後にいる相手はそんな隼人の動きに気づいてか、再び「隼人」と小さく耳元で名前を呼んだ。
「頼むから、しずかに、な?隼人……」
口を塞がれたまま、視線を背後の相手へとずらして、隼人は「どうして?」と目だけで問う。
「ここに俺がいるのも、内緒」
ますますわけがわからない。突然のことに目を白黒させる隼人に、背後で屈み込んでいるシャマルは口元だけで微笑んで囁いた。
「もうすぐ終わる。あとちょっとだから」
何が?と瞳を向けると、途端にシャマルは「動くな」と鋭い視線を返して続けて囁いてきた。
どさり、と。何か重いものが雪の上へ落ちたような音がしたのはその直後だった。
シャマルは何も言わずにするりと隼人の口元を覆っていた手を離し、隼人がその名を呼びかけるよりも早く、気がついたときには隼人の背後から姿を消していた。
霧の中、幻のように跡形もなく消えてしまったシャマルは本当にこの場にいたのだろうかと、夢の中にいたような気持ちになった隼人はふと、シャマルがいたはずの雪の上に何か赤いものが点々と落ちていることに気がついた。
「血……?」
シャマルは怪我をしているようには見えなかったけれど、でも、ここにこれが残っているということは、確かにこの場にシャマルがいたという証になる。真っ赤な血液の証。
嫌な感覚に捕われかけていた隼人を現実に引き戻すように聞こえてきたのは、人の駆け寄ってくる足音と自分を呼ぶ声だった。
「隼人様…!こちらにいらっしゃったのですね…っ」
ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながら防寒着を持ったメイドが駆け寄ってきた。
「こんなに寒い日に、お召し物がそれだけでは風邪をひいてしまいます!ああ…こんなに冷たくなって…!」
メイドは隼人の小さな手を両手でぎゅっと包み込むように握ると、すっかり冷えてしまった手をあたためるように擦った。
中庭を駆け回って必死で隼人を探していたらしいその様子に、少しだけ申し訳ない気持ちになって、いつもは駄々をこねるところだったけれど、おとなしく隼人はメイドが持参した防寒着を着せられてやることにした。
「ねぇ、ドクターを見なかった?」
「隼人様のおっしゃるドクターというと、シャマル様のことですか?」
「うん……」
「いいえ。わたくしは隼人様をお探しする間、この庭ではどなたともお会いしませんでしたけど……」
「そっか……なら、いいんだ」
「シャマル様は今日はお部屋にいらっしゃると思いますよ。後でご挨拶に伺えばきっとお会いできるでしょう」
「そうだね」
隼人はどこか上の空でメイドの問いかけに返事をした。
その日は結局、シャマルには会いに行かなかったのだ。



あの日のシャマルが何をしていたのか。ずっと聞けなかったそれを偶然隼人が知ることになったのは、それから何年も後の話だ。
城を出たその後、物心ついてから隼人が聞いた話。
あちらこちらのマフィアの間を渡り歩いて生活していた頃、偶然その頃の溜まり場になっていた酒場で聞いた話だった。
トライデント・モスキートの二つ名を持つ男を知っているか?と。当時隼人が世話になっていたマフィアの男は、開口一番得意そうに語りだした。
昔、その男の知り合いだったあるマフィアの男が、今は無いとある有力なマフィアのボスが所有する城に料理人の一人と偽って潜りこんだことがあったのだという。
城の主もファミリーの男たちも、護衛やメイドですら誰もその料理人の男の真実の姿に気づくことができなかった。
料理人と偽って城に潜入したその男は、どうやら城主であるマフィアの子どもの命と引き換えに金を得ようとしていたらしい。
隙を見て城主の子どもを城から誘拐する。ばかげた計画ではあったが、誰も見抜けなかったのだからそれなりに巧妙にやっていたのだろう。
ところがそれを見抜いた男が一人いた。
当時その城にいたトライデント・モスキート。超一流の闇医者だが、奴のその真実の姿は殺し屋だ。
その男の手にかかってあっさり料理人だった男は殺されてしまった。後には死体も出ないほどに鮮やかな手際だったという。
そんなヒットマンは早々いない。今はボンゴレに関わっているらしいが、その顛末を聞いてから、俺ぁ奴に惚れてんだ。
マフィアの男はそう言って、楽しそうに笑いながら杯をあけた。


シャマルだった。どうしようもなくシャマルだった。
覚えている。記憶している。
少なくともあの城に居た頃、隼人は言葉として彼がヒットマンであることを聞かされてはいても、実際に彼が人を手にかける姿をただの一度も見たことはなかったのだ。
彼はあの城に居る限り、まぎれもなく医者だった。
シャマルもそれはわかっていたに違いない。
だから見せなかった、最後まで。ただの一度もそんな姿を見せなかった。
あの日偶然に幼かった隼人が中庭にいたことは、シャマルにとって唯一の誤算だったのだろう。
ぎりぎりのところで隠し通したつもりでも綻びはこうして表に出てきてしまった。
「だからあんたは詰めが甘ぇんだ……シャマル」
おかしくて、苦しくて、今ここにはいない男のことを思って隼人はその夜、一人で泣いた。


2007/6/25
□Dr.シャマルで10のお題□