・メビウスの軌跡・


ああ、今日は誕生日だというのに。
目を開ければ天蓋付きのベッドのその見慣れた風景が揺れてみえる。
頭に響く高い声。今はそっとしておいて欲しいのに、大勢のメイドたちに部屋へ入ることを止められて騒ぎ立てているのは間違いなく姉の声だ。
マフィアの父親は今日の誕生パーティが隼人の体調不良で中止になったと聞くや否や、あっさりと城を出て行ってしまった。
滅多にこの城で顔を合わせることのない父と、今日くらいはゆっくり話をしてもらえると思っていたのに。
一年でも今日のこの日くらいは隼人に笑いかけてくれるかもしれなかったのに。
また一年待っていなければならないのだろうか。そう思うと熱のせいでただでさえ潤んでいた瞳がますますじんわりと熱を帯びてくるような気がした。
隼人は小さく浅く呼吸を繰り返しながら再び目を閉じる。
「ドクター、隼人はどうなの…!」
「ビアンキお嬢様…!いけません!隼人坊ちゃまはご病気なのですから…!どうかお声を抑えて…!」
慌てるメイドの声が聞こえてくる。どちらも煩いことには変わりない。きっと扉の前で押し問答を繰り広げているのだろう。
いつだってそうだ。隼人が病気になるたびにそれは繰り返される。体の弱い弟を心配するビアンキと、姉の身に何かあってからではすまないと看病をすることはおろか部屋に入ることすら制止するメイドたち。
小さな咳払いをごく近くで聞いた気がして隼人はわずかに身じろぎした。目を開けようとしても頭がずきずき痛むのと呼吸が苦しいせいでうっすらとしか開けることができない。あきらめて再び重い目蓋を下ろして力を抜くと、幾分体が楽になった気がした。
いつの間にか胸のあたりがすうすうする。肌蹴られた服の間から侵入する手は大人の大きな手だった。
胸と腹に素早く触れるその手と冷たい無機物の感触は聴診器なのだろう。そのくらいは隼人にだって想像がつく。
「こりゃあ……急性鼻咽頭炎」
ふぅむ、と勿体ぶって顎に手を当てながら言うその男に対するビアンキの叫び声が、次の瞬間部屋中に響き渡っていた。
「な、なによ!隼人はなんの病気なのっっ!!」
「ま、つまりはただの風邪だな。あったかくして栄養のあるもん…はいつも食ってるみてぇだし、寝てりゃ治る」
部屋の中と外で待機しているメイドたちがほっと息をつく声が、たちまち聞こえてきた。
きょとんとした表情でシャマルを見つめるビアンキに、シャマルは扉の傍まで歩み寄ってくると彼女の頭を撫でながら言った。
「風邪っぴきが増えりゃ俺の仕事も増えちまうからな、お姫様はこっちにゃしばらく立ち入り禁止だ」
「いや!そんなの絶対いや!隼人は私の弟なの!たった一人の弟なの!看病ぐらいできるわ!」
大きな瞳に涙を浮かべながら抗議する少女の腕を取り、この城の中でただ一人の医師はかがみ込んで彼女に視線を合わせて言った。
「お前さんのその覚悟は立派なもんだよ、ビアンキ。だが――」
「いや!放して!私は隼人の看病をするんだから!いやった……ら、…いや……な……の……」
くるりと地面が頭上にまわっていく。ああゆれる、落ちる。ビアンキは唇を悔しそうに噛み締めて手を宙に彷徨わせた。その手をシャマルは即座にとって、意識を失いささえをなくした彼女の体をそっと抱えるようにして抱き上げる。
「もう少ぉしばかり自分の身を自分で守れるようになってから、な?」
言い聞かせるようにささやいて抱き上げたビアンキをメイドに預けると、シャマルは隼人のいるベッドサイドに椅子を持ち出してどっかりと腰掛けた。眠るその表情はあいかわらず熱のせいで苦しそうだ。
「良い姉ちゃんじゃねぇの。よかったな、隼人」
前髪の落ちかかる額をそっと撫でながら言う。必死なビアンキには少しばかり悪いとは思ったけれど、躊躇いもなくトライデントモスキートを使って眠ってもらったのは、これ以上騒ぎたてれば隼人の病状が快方に向かうどころかますます悪化するであろうことが想像できたからだった。
姉を普段から邪険にしている弟のその様子を知っているだけに、ああもビアンキから愛されている姿を目にするとなんとも複雑な気分にならないこともない。けれど隼人にビアンキがいるということは、この広大な城の中で隼人が決して一人ぼっちではないという事実をも意味するのだ。
「誕生日……ねぇ?」
忘れちまったなぁ、そんなものは。
ふと自分が隼人くらいの年頃、どんな風だったかを想像しかけてシャマルは小さく頭を振った。

+++



どこだろう、ここは。
隼人は暗闇の中にいた。一人だった。右も左も上も下も真っ暗だった。
最初は小さな声で、次第に大きな声で叫ぶように呼びかけてみても誰の声も聞こえない。まるで闇の中に自分の声も吸い込まれていくようで隼人は段々恐くなってきて涙目になりながら歩き出した。
とぼとぼと歩き始めると、すぐに目の前にぼんやりと何か青白い光が浮かび上がってきたことに気がついて、そうなるともうその光に向かって夢中になって駆け出していた。
だから今、隼人は必死で駆けていた。大人たちとは違ってまだ小さい隼人の歩幅ではいくら駆けてもその光への距離は簡単には縮まらない。それでも隼人はぜいぜいと息を乱しながら駆け続けることをやめなかった。
隼人の目にはもはやその光しか映っていない。それ以外に行き場がないのだから仕方ない。追われるように駆けて駆けて、気がつくと足元はぺたぺたと不思議な感触のする白っぽい床になっていて、まるで光の中に飛び込んだように周囲は白一色の世界になってしまっていた。
「ここ……なん……だ、これ」
「……っわ」
目の前がちかちかするくらいのものすごい衝撃だった。
痛みに声も出せず隼人がぶつけたばかりの額を押さえて蹲ると、ぶつかった相手もまた同様だったようで、再び隼人がおそるおそる目を見開いたときには隼人と丁度左右対称の姿で額を押さえて痛みに涙を浮かべている同じ年頃の子どもが、いた。
「な……ん、で」
子どもは小さく声をあげて、それからはしばみ色の瞳を大きく見開いてまじまじとそれは心底驚いたとでもいうように隼人の姿を見ていた。
「なんで……子どもが……まさか、俺の他にも……?」
ぶつぶつと何事かを呟きながら目を白黒させている子どもを目の前にして、少しだけ落ち着きを取り戻した隼人は声を上げる。
「ここ……一体どこなんだ?」
「どこって……どこかも知らずにこの場所に?お前もあいつらにつれて来られたのか?」
目の前の子どもは押さえていた手を額から離して、隼人の方へとゆっくりと歩み寄ってきた。癖のある黒い前髪の隙間から覗くその額は赤くなって腫れ上がっているように見える。
「お前もって……なんの話だよ!っつーか、ちょっと待て!俺は……っ」
まさか熱を出して寝ていたはずが気がついたら真っ暗闇の中にいて、そこから光を目指して走ってここに着きましたなんて言えるはずもない。なんと答えたものかと躊躇っているうちに何事かを勝手に解釈したらしい目の前の相手はそうか、と小さく頷いてほっとしたように息をついていた。
「お前も同じなんだな。いきなりわけわかんねぇやつらに連れて来られて実験だのなんだのって。そっか……俺だけかと思ってた」
わけのわからない状況だけれど、その表情から目の前の相手が隼人に対して好感を抱いたということだけはなんとなく理解できた。ここは話を合わせておくべきなのだろう、きっと。隼人もまたこくこくと首を縦に振って言った。
「な、なんかわかんねぇけど…大変なことになっちまったな……」
「お前、ここに来たばっかりか?もしかして」
「あ、ああ。実はその……つい、さっき」
しどろもどろになりながらも様子を窺いながら返答する隼人に、子どもは初めて隼人に笑いかけてきた。
「じゃあ俺のがここじゃ先輩だな。お前なんていうんだ?」
「何が?」
「名前だよ。識別番号ばっかりでうんざりしてたんだよ。来たばかりならちゃんとあるだろ、お前の本当の名前」
名前?本当の?どういうことだ?尋ねたい言葉を必死で飲み込んで隼人はようやく口を開いた。
「俺は……獄寺隼人だ。お前は?」
「ハヤト?アジア系なのか?でもその言葉……」
「ああ、四分の三はこっちだよ。でも俺はこっちの名前がいいんだ」
「そっか……」
「お前はなんて名前なんだ?」
「シャマルだよ」
よろしくな、隼人。
そう言って手を差し伸べてきた子どもの顔を見て、隼人はごくりと息をのんだ。





2008/2/9(にUPしたかった!出遅れ!)




隼人の誕生日話のようになってますがちゃんとシャマルのお祝いなのですよ!まだまだ続きそうなので続きは…のんびり連載じゃだめ…です、か…うっ。