・冷めたからあげ・


「からあげ食いてぇ」
唐突に隼人がそんな言葉を口にしたのがいつの食卓だったのか、その記憶を辿ろうとしてももはや記憶の端にもかからないほどの歳月がたっていることに気づいて頭を振った。
ただそのとき自分が鳥もも肉を買ってきて、お子様の要望通りにから揚げを揚げてやったことは、確かにおぼろげな記憶の中にある。
表面がかりかりで、中がふんわり、噛めばぷりぷりのその鳥の肉の味が口の中いっぱいに広がるそれを子どもはいつも喜んで食べていた。
肉ばかり食べていては大きくなれないと諭していたけれど子どもはいまや立派に己の背を追い抜いてしまって、このところ、顔を合わせるたびに逆に説教すらされる始末なのだから、お手上げだった。
唐突に思い出したから。自分では日ごろ全くと言って良いくらい食べる気持ちになれないそれを作ってみようかという気持ちなったのは、ただの気まぐれとほんのささやかな、ごくわずかな、吹けば飛んでしまいそうなかすかな希望を、とうに枯れきってすかすかに干上がった胸の内に抱いたからだったのかもしれない。
大げさな量の鳥もも肉をすぐさま買出しに行って、丁寧に下ごしらえをして肉をよく揉んで下味をつける。
味付けはしょうがににんにく、しょうゆ、さけ、みりん。日本風のその味付けは子どもが好んでその昔よく食べていたそれと同じもの。日本で暮らしていた頃によく使っていた調味料が未だにこの家の中にあるのは奇跡でも偶然でもなく自分自身が気に入ってすっかり手放せなくなってしまった味だからだった。
十分に熱した揚げ油の中、片栗粉をまぶして鍋肌から静かに肉のかたまりを落としいれた。
こんがりときつね色に揚がってきた頃に火を強めて、空気に触れさせながら2、3回返す。これが表面を子どもが気に入るかりかりとした食感にするこつだった。
鼻歌でも歌いだしたくなるようななつかしいやさしい気持ちがからりと揚がったからあげの香ばしい香りと一緒に広がってくるのにそう時間はかからなかった。
油を切って器に盛る手つきを今か今かとキッチンのその隣で見つめている子どもの手が、我慢できないとばかりに揚げたてのそれを手にとる姿。
浮かび上がる記憶は油のぱちぱち跳ねる音と一緒に消えていく。
今はここにはいない相手。今はここには来ない相手。
大量に揚がったから揚げを大きな器に綺麗に盛り付ける。
いろどりの鮮やかな野菜たちと一緒に盛られたからあげ。
誰の口にも入ることのないそれを、食卓のテーブルの上において、しばらくの間頬杖をついてぼんやりと皿の上のそれを見つめていた。
揚げたてのあつあつだったそれは時間がたてばたつほど、静かに冷めて、冷えていく。
一時間が過ぎて二時間が過ぎて、賑やかだけれど穏やかな食卓の記憶が次第に遠ざかるのと同時に残されたから揚げの器がやたら目につくようになる。
なぜどうしてこんな行動をとってしまったのだろうかとか、今更ながらその自らの内側に急激に沸きあがってきた衝動のようなものが理解できなくなってシャマルはくつくつと喉の奥で笑い出した。
間抜けな自分と同様に取り残された大量のから揚げ。さてどうしたものかと一つつまんで口に運ぶ。
箸を使わずに口に入れるのは行儀が悪いのだと注意した記憶。関係ないとばかりに隣でから揚げを旨そうにつまむその白い指先。小憎らしい笑い顔。そのどれもが冷め切ってがちがちに固まった肉の、噛んだ瞬間に広がるいかにも胃にもたれそうな重い味わいと相俟って理解不能な自分の突発的な行動を責めていた。
愛していることも好きなことも全ては言えなかったあとのまつりで、責任をとりたくないからと言葉にできなかったしてこなかったその重さを受け止める胃はそんなに強くはないのだ。
胃もたれするほどのその愛が行き場を失って目の前の器の中に埋もれている。
悲惨で醜悪な肉の塊。冷め切ったそれは自分の内側をも冷酷に壊そうとする凶器になる。
ああなんて哀しい末路。きっとこの器ごと明日の朝にはダストボックスの中だ。一晩の夢想。作っている間だけは何か後ろめたいよろこびに満ち満ちていた。あの充足感が嘘のような徒労、疲労。
全身を蝕むそれの正体を思いながら、シャマルは指先に残る油を舐めとった。
口の中に含んでなおそれはその存在を主張し続けている。
もう腹一杯だよとテーブルの上に顔を伏せた。
それからさらに一時間がたって。
それからさらにもう一時間がたって。
それからさらにまたもう一時間がたって。
うとうととしていたその瞳が物音に気が付くのと見開いた視線の先にいるその不法侵入者と目が合うのはほとんど同時だったのだ。
「あんたさぁ……こんなん、一人で食ってるわけ?ガキじゃねーんだから、その年でこれはねぇだろ」
もごもごとつまんだから揚げを頬張りながら言う男は、シャマルのいかにも気まずそうな顔色を窺って笑っていた。
「……うるせぇ」
「で、俺のためだった、って。言えねーわけ?」
「誰が言うかよ」
「ふぅん、でも、冷めてもやっぱ美味いよ、あんたのからあげ」
一瞬言葉に詰まったその瞬間を見咎められはしなかったけれどやはり、簡単に言葉を返すことも出来なかった。
今更、なのだ。すべてはそう、今更なのだ。
「……それだけか?」
「あんたこそそれだけなわけ?」
「来るなんて聞いてなかった」
「俺も来るって言った覚えはねぇし」
「じゃあそれ食ったらとっとと帰れよ。お前んとこの大将がどうせ待ってンだろーが」
「ん、でもあんたんとこに先に来たかったんだよ」
子どもだったはずの大人は笑って言う。
その笑い方は今も昔も少しも変わっちゃいない。
油のついた指先を舐めるそのしぐさだって、ただの少しも変わっちゃいない。
「ありがとな、シャマル」
俺を待っててくれたんだろ?
笑って見透かされた言葉は何より自分が一番餓えていた人間の、餓えていた言葉だということを自覚して眩暈がした。

「Buon Compleanno」

祝福の言葉もから揚げもみんなお前のため。
俺の存在すべてをみんな、お前のために。






2008/9/9


毎度のことながらどこか祝っているのやら。20代後半?とか、そんくらいの隼人かなぁ。