・残り香を覚えている=2=・

勢い三人で昼食をとっていた屋上から一階の保健室前まで走ってきてみたものの、ここ数日の隼人の不調の元凶であるその男にどんな顔をして会えば良いのかわからなかった。
会ってどうしよう。顔を見た第一声は何を言おう。十代目に出直してくると告げた以上このまま何もせずにすごすごと教室へ戻ることもできない。
かといって隼人には目の前の保健室の扉を開けることも出来ないまま、昼休みの時間は刻一刻と過ぎていく。
「せんせー、ありがとう!」
「はいはーい次は気をつけるんだよぉ子猫ちゃんたちー」
逡巡している間に目の前の扉がからからと音を立てて開いた。中から出てきた女生徒三人組はシャマルに嬉しそうに声をかけて、明るい笑い声を響かせながら隼人の脇を通りぬけて行った。
「なんだ、隼人か」
女生徒たちに声をかけていたときよりも一オクターブほど低い、やる気のない声色に名を呼ばれて隼人は顔を上げた。
間の悪さに我ながら眩暈がする。無視をして立ち去るわけにもいかず、物も言わずに眼前の相手を睨みつけた。
「どーした?なんか用か」
「別に……」
用というほどのことでもない。お前のせいでここ数日苛々させられていて十代目が心配なさっているから今までどおりにお前の家へ行かせろ。それだけのことだ。
言葉にすれば単純明快、一息に言ってしまえばそれで済む話だ。だのに、それが言えない。
「あ、獄寺、いたいた」
知った声に背後から呼ばれて振り返ると、肩越しについ先ほどまで屋上で顔をつきあわせていた相手の顔が見えた。
「お前、今週体育倉庫の掃除当番だったろ?オレも当たってっから、一緒に行こうぜ」
昼休みの終わりを告げるチャイムの音が山本の声に被さるように聞こえてくる。
「あ、ああ。そうだな」
ちらりとシャマルの顔を窺えば、その表情には特別これといった感情が浮かんでいる様子もなかった。
何事もなかったかのようにシャマルに背を向けて、隼人は山本の後について歩き出した。
「やっぱあのおっさん絡みなのな」
体育倉庫へと向かう途中、中庭を歩きながら山本は小さく隼人に向かって呟いた。
「だからなんだってんだよ」
いつもに増して眉間に皺をぎゅっと寄せた隼人に不機嫌そうに応じられて、山本は困ったように笑った。
「あのおっさんもお前も、ほんと、面白れーよなぁ」
「……んだよ」
言いたいことがあるならはっきり言え。隼人に詰め寄られて、山本は預かってきた鍵で体育倉庫の扉を開けながらもう一度笑った。
「お前ら似てるってこと」
「はぁ?あのヤブ医者とオレがか?」
「そう」
二人がかりで立て付けの悪い倉庫の扉を全開にした。手にとった箒で床を一撫ですると、積もりに積もった埃が宙を舞った。
隼人は早々に掃除を諦めて、奥に仕舞ってある跳び箱の上に腰掛けた。
「ちゃんとやれよ、獄寺」
「こんなんどうせちゃんとやってる奴がいねーからこの状態なんだろ」
倉庫の中の備品は普段ほとんど使われることが無いもののようで、隼人が腰掛けた古い跳び箱の上にも真っ白い埃が積もっていた。跳び箱の隣にはマットが積み重ねられており、その奥には体育祭の時ぐらいにしか活躍しないであろう綱引き用の綱がとぐろを巻いている。
幾層にも重なった何年分かの埃の臭いが辺り一面に染み付いているようだった。
持った箒をバットのように構えて一振りしながら「まぁそうだよな」なんて笑っている山本の隣には、バスケットボール、サッカーボール、バレーボール、様々な種類のボールが雑多に入れられたカゴが置かれている。
その奥の錆付いた平均台の方に移動した山本は、そこに腰掛けながら隼人の方を見て三度笑い出した。
「何がそんなにおかしいんだよ」
「喧嘩してんのに仲良さそうに見えんだもんな」
「誰と誰が」
「お前と保健のおっさん」
「誰があんなのと!」
「でもお前あのおっさん嫌いじゃねーだろ?」
「……嫌いだ、あんなの」
見境のない女好きの酒好きでだらしなくて調子の良いことばかりしか口にしなくて、いつも何考えているのかわからなくて嘘つきで自分のことばかりのくせに他人のことはなぜかよく見ていて、関係ないって言いながら必要なときに手を貸すことを躊躇わなくて、そのくせ大事なときには掴んだその手を離して逃げ出す臆病な男。
「大嫌いだ、あんな奴」
「俺は好きだぜ、あのおっさんも、お前も」
「は?」
「だから、お前のこと好きだって」
「野郎相手に気持ちわりぃこと言うな」
「だって仕方ねーだろ。好きなもんは」
「だから連呼すんな!」
隼人は座っていた跳び箱から勢いよく立ち上がって歩き出すと、平均台の上に座る山本の前で立ち止まった。
「貸しにしといてやる」
ぽそりと呟かれた聞き取れるか聞き取れないかというその小さな声が山本の耳朶をくすぐった。
「ありがとう」
一瞬何が起きたのかわからなかった山本がそれを理解する前に、隼人は体育倉庫を走って出て行ってしまった。
「あー、なんかちょっと、うらやましい……ってぇのか、な」
取り残された体育倉庫の中で一人掃除の時間の終わりを告げるチャイムの音を聞きながら、山本は平均台の上で天井を仰いだ。



2007/6/10