・残り香を覚えている=3=・

「人んちの前でなぁにやってんだ、お前」
帰宅しようとしたシャマルは家の扉の前に小さく蹲って座り込んでいるそのかたまりを発見した。
「……遅ぇんだよ」
のろのろと顔を上げて目の前に立つ自分を見上げてくる隼人の瞳を、シャマルは目を細めて見返した。
夕方からの職員会議が長引いたせいもあって、今日はいつもより帰宅が遅くなったのだ。隼人はきっとシャマルが思うよりも長い時間一人でこの場所にいたに違いない。
「お前な、ご近所さんにでも目撃されちまったら俺が妙な誤解受けるんだから、ちったぁ考えろよ」
「誰も通ってねぇから安心しろ」
「そーいうことじゃなくて。ったく、ほら」
腕を掴んで無理やり引っぱり上げた隼人を慌しく扉の内側へと引きずりこんだ。
「で?ここにゃもう来ないし俺のプライベートにも金輪際立ち入らねぇって言ってたのはどちらさんでしたっけ?」
玄関先ですぐに問われて隼人は気まずそうに俯いた。
「……金輪際なんて、言ってねぇし」
「じゃあボンゴレ坊主か野球小僧あたりにでも焚き付けられたか」
「……」
返答がないところをみるとビンゴなのだろう。「どっちだ?」と尋ねれば、忌々しそうに「どっちもだ」と小さく返ってきた。
「じゅ、十代目が心配されてるんだよ」
「……心配させるようなことでもしたのか?」
ふぅん、と鼻を鳴らしてシャマルはにやにや笑いながら隼人の顔を覗き込んでくる。だからこいつのことは嫌いなんだ。大嫌いなんだ。
「なんだよ……!元はといえばお前が悪いんだろーが!お前が適当で勝手な真似ばっかしやがるから……!」
「そっくりそのままその言葉、お返ししますけど?」
「茶化すな!んだよ……お前のことなんか知らねぇっつってんのに!なんでこんな……!こんな……!」
ちょっとぐらい離れていたところで何も思わないし変わらないつもりだった。
実際シャマルとは会わずにいた期間の方が長い。日本で再会する前まではそれでも何も問題なかったのだ。
シャマルが日本へ来て、並盛中の保険医になって、そばにいるようになって、話をするようになって、互いの家を行き来するようになって、一緒に夕飯を食べて、他愛無い話をしながら眠りについて、朝が来て学校へ向かって。
そういう穏やかで優しい日常を共有できる日がまたやってくるなんて思いもしなかったのだ。
この部屋の中にはいつだって、あの城の彼の書斎と同じ、懐かしい香りが溢れていた。
「あー、うん、ほら、隼人」
髪にそっと触れてくるシャマルの手。
酒と煙草の匂いに混ざってふわりと香るのは幼い頃の記憶の中にある彼の匂いだった。
「悪かったって。悪ふざけが過ぎたな。ほら、落ち着け」
くしゃくしゃとそのまま髪を掻きまわすように頭を撫でられて、完全な敗北を思い知った。どうあがいても今更この男には勝てる気がしなかった。
「また飯食いに来たけりゃ来りゃあ良い、俺ぁここに来るななんて言わねーから」
こくんと小さく隼人が頷くと、頭の上に置かれていた手が離れていった。
シャマルが腕を引くのと同時にまたふわりと香る匂いに、思わず目を閉じる。
「お前さ……ずっと、香水変えてねーの?」
「あ?……あぁ、これなぁ。よく覚えてんなぁ、お前も」
一瞬驚いたように目を見張って、シャマルは笑って応じた。
「腹減ってんだろ、どうせ。久しぶりだなぁ、お前と飯食うの」
「たった二週間しかたってねーじゃねぇか」
「でも久しぶりだろ?」
確かにそうだった。つまり、二週間前までの時点ではそれほど頻繁にシャマルと会っていたということに他ならない。
その事実を意識した途端に顔が熱くなってくるのを感じて、逃げ出すように隼人はシャマルから離れて奥のリビングへと歩き出した。
「隼人ぉ?どーした?」
「うるっせぇ!」
「あ、今日は脱がねーから安心しろよー」
「当たり前だ!」
懲りないのはお互い様。きっと顔を合わせるたびに些細なことで文句を言い合うことはこの先も変わらないだろう。
それでもこの香りの中に帰ってくる。いつだって、何度だって、迎え入れてくれる手がある限り。
「ただいま」
誰に向かうともなく呟かれた言葉は、懐かしい香りの中に溶けて消えていった。




2007/6/10