・健やかなるときも病めるときも・

思えば朝から体が少し重かったような気もする。
666の不治の病に罹患している体はこんな形をしていてもその実酷く繊細なのだ。
日々の体のメンテナンスという名の治療を怠ればすぐにでも命そのものが危うくなる厄介な体を抱えて生きてきた。翻せば、そうして治療し続けている限りシャマルが病死することは半永久的に有り得ないということでもある。
微熱程度ならばトライデント・モスキートを使ってわざわざ抑える必要はないだろう。そう判断して一日養護教諭としての仕事をいつも通りこなして家に帰ったシャマルは、帰るなり着替えもせずにすぐさまベッドの上に突っ伏すことになった。
「めんどくせぇなぁ……」
トライデント・モスキートで病の相殺をするのは他人が傍目に見るよりもずっと複雑な行為なのだ。少し加減を見誤れば333対の病の均衡が崩れ、シャマルの命そのものが危うくなる。
勿論それをさらりとやってのけるのがシャマルが天才たる所以でもあるわけなのだが。こと自分に関しては最低限体が日常生活に耐えられれば良いとしか考えていないシャマルにとってそれは実に面倒な行為でもあった。
間の抜けたチャイムの音が不意に聞こえてきたのはそのときだ。
しばらく放っておいて居留守を決め込もうとしたシャマルの耳にそれは間を置かずに幾度も幾度も聞こえてくる。
「うるっせぇな……ったく」
重い体を引きずってエントランスに向かう。のろのろと緩慢な動作でシャマルがドアを開けようとする間にも狂ったように繰り返し押され続けるチャイムの音。こんな鳴らし方をする人間をシャマルは一人しか知らない。
「遅せぇんだよ!どうせまた女じゃねーからって出ねぇつもりだったんだろーが」
「……あーはいはい、わかったから。とりあえずちゃっちゃと入ってくれる?隼人」
訪問者は慣れた様子で扉の内側に滑り込んだ。
「どうせまた飯でもたかりに来たんだろ?ちょっと待ってな」
「あ、飯はさっき十代目たちと食ってきたし……別に…そんなんじゃねーから、今日は」
「ふぅん……じゃあ、なんだ?」
「その、今日、あんた」
言いづらそうに口ごもる隼人に、珍しいこともあるものだとシャマルは問いかけた。
「どうした?」
「……」
それきり押し黙ってしまった隼人にやれやれと肩をすくめて、シャマルはキッチンに立った。
「コーヒーしかねぇからな」
シャマルが湯を沸かし、コーヒーをドリップする様子を隼人はリビングから眺めていた。シャマルの手の動きから次に何をするのか予測がつく程に、幾度も繰り返し見つめてきた自分のためにコーヒーを入れる背中だ。
用意したマグカップにコーヒーを注ごうとガラスポットを手にしたシャマルの背中がぶれて見えたのはその次の瞬間のことだった。
「シャマル!」
ぐらりと傾いだ体はあっけなく崩れ落ち、シャマルが握っていたコーヒーが入ったガラスポットはフローリングの床の上に砕けて散った。
駆け寄った隼人がシャマルの体を抱き起こす。握った手は床に溢れるコーヒーと同じくらい熱かった。
「何やってんだよ……大馬鹿野郎」
呟いた声が情けないくらい掠れていた。どうしてすぐに気づいてやれなかったのだろう。昼休みに保健室を覗いた時、どこかいつもと雰囲気が違っていた気がして、気になって来てみたのだ。玄関先で顔を見たときには普段と変わりないように見えてつい油断した。シャマルがそういう男なのは知っていたはずなのに。
熱が出ていて体調が悪いならいつものお得意の治療を自分の体に施すなり、それが面倒だというならせめて薬を飲むなりすれば良いのだ。
どうしてここまで放っておく?他人にはあれだけ自分の体を粗末に扱うなと言っておいて当人がこれなのだからどうしようもない。
シャマルの腕を自分の肩に回すと隼人はその体を引きずるようにしてキッチンから運び出してやった。自分より体格の良い相手をベッドルームまで運ぶのは大変な作業だったが、なんとか目的地のベッドまで運び終えた隼人は、とりあえずシャマルが目覚めるまでそこで待つことにしたのだった。


隼人の声を背後で聞いてからどれくらいたったのかわからない。次に目を覚ました時にはシャマルはベッドの上にいた。
「……れ、はや…と?」
「何やってんだよ、あんた」
聞こえてきた飽きれるような声の調子と溜息にベッドの上でシャマルはくすくすと笑い出した。
「何がおかしいんだよ!」
苛立った声が頭の中に響いてくる。
「でかい声急に出すなって。響いて頭痛ぇんだよ……」
「なんで……」
なんであんたはいつもいつもそうなんだよ!
肩をわなわなと震わせながら掴みかかってきた隼人に、シャマルは小さく悪かったな、と呟いた。
「……んだよ……いっつも、そーやって……人が心配して見に来てみりゃあ平気な顔してへらへらしてやがるし!そうかと思えば目の前でぶっ倒れちまうし……」
「ふぅん、心配、ねぇ?」
見つめられて耳が熱くなるのを隼人は止められなかった。
「だから……っなんでいつもみてぇに相殺しねーんだよ、このヤブ医者!」
「まぁなぁ……悪かったって。つい、な」
「迷惑かけられんのはこっちなんだよ!わかったらとっとと寝ろ!」
熱い額を枕の上に改めて押し付けてやると、くぐもった声がかすかに聞こえてきた。
「えーおやすみのちゅーは?隼人」
「誰がするか!」
そんなふざけた応答の後、すぐにシャマルは目を閉じてしまった。隼人が思う以上に体がきつかったのかもしれない。
手厚い看護を受けた覚えはいくらでもあるけれど、他人の看病したことがない隼人には、辛そうなシャマルを前に行動のとりようがなかった。
シャマルの苦しそうな寝息を聞きながら、じっとその寝顔を見つめていることしか出来ないのだ。
他に何か出来ること。病気のときにしてもらって嬉しかったこと。必死で記憶の底から引きずり出したそれらの中で唯一今すぐに自分でも出来そうなことを思いついた隼人は即座に実行することにした。


まだ夜が明けきらぬその時刻に目を覚ましたシャマルは、ようやく熱が下がり始めたのか、体が昨晩より幾分楽になってきていることに気づいて安堵した。
隼人はどうしただろうかと体を起こそうとして、ふと右手にわずかな違和感を感じて視線を移すと、ベッドの縁にもたれかかるようにして俯いて眠る隼人の姿が目に入った。眠る隼人のその左手はシャマルの右手をぎゅっと握りしめている。
シャマルはくすりと小さく微笑んで、左手で隼人の髪に触れた。
それはまだずっと隼人が幼い頃、自分たちがあの城で共に暮らしていた頃のこと。高熱を出した夜、容態の急変に備えてつきっきりだったシャマルは、一晩中幼い隼人の手を握ってやっていたことがあった。
「grazie」
囁いて、隼人の額にそっと唇を寄せた。



2007/5/27